聖書を開こう 2021年10月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  悲しみではなく喜びのために(フィレモン17-23)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 誰かにお願い事をするとき大切なことは、相手がそれを納得してくれることです。当たり前ですが、よほど気前の良い人でもない限り、納得のいかない願い事を聞き入れてくれる人はいません。

 その願いが自分にとってばかりか、その人にとっても重要な事柄であれば聞き入れられる可能性は高まります。しかし、それでも聞き入れてもらえないとなれば、他にもいろいろな理由を並べて、願いを聞き入れてもらうように努力をします。

 今学んでいるフィレモンヘの手紙は、一人の逃亡した奴隷を元の主人が再び受け入れるようにと願って書かれた手紙です。前回はその願いそのものと、その願いを受け入れることが、フィレモン自身にとって、またフィレモンの家の教会にとって大切な事柄を意味していることを学びました。きょう取り上げる個所には、フィレモンがこの願いを受け入れるべき理由がさらに述べられます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィレモンへの手紙 17節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 前回はフィレモンのもとから逃亡して、パウロのもとでクリスチャンとなったオネシモのことを取り上げました。パウロはこのオネシモを元の主人であったフィレモンに再び受け入れてほしいと願っています。

 パウロがそう願う最大の理由は、オネシモがただの逃亡した奴隷ではなく、今や同じ信仰を持った一人の主にある愛すべき兄弟だからです。パウロはフィレモンの信仰に訴え、信仰に基づいて行動をとるようにと願っています。そのことは、フィレモン自身の信仰の問題であると同時に、フィレモンの家に集まる信仰者たちに対する証でもありました。口では「愛する兄弟」と言いながら、実際の行動でその兄弟を受け入れないとすれば、それは、見せかけ倒しの信仰でしかありません。

 前回は、時間の都合でまったく触れませんでしたが、パウロ自身は、フィレモンとオネシモとの間に起ったことを、神の不思議な摂理の中で起こったことと受け止めるようにとの考えもありました。15節の言葉にあるように、オネシモがフィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに来たのは、逆説的な言い方ですが、フィレモンがオネシモをいつまでも自分のもとに置くことができるようになるためだった、というのです。出来事を神の摂理として受け止めることの大切さも、パウロはさりげなく教えています。

 さて、きょうの個所は引き続きフィレモンを説得する言葉が続きます。すでに重要な点は前回の個所で十分に述べられていますので、ここで述べられている事柄は、補足的な説得と言ってもよいかもしれません。

 「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」(フィレモン17)

 パウロは、自分を同じ信仰にあずかる仲間として、この願いをフィレモンに訴えています。使徒としての権威に訴えて何かを命じるのではなく、信仰の仲間の頼みとして考えるように願っています。

 もしパウロを同じ信仰を持つ仲間として受け入れているのであれば、そのパウロが洗礼を授けたオネシモをパウロと同じように受け入れるのは当然のはずです。大げさな言い方ですが、パウロはフィレモンにオネシモをパウロ自身だと思って受け入れて欲しいと願います。逆に言えば、もし、フィレモンがオネシモを拒むとすれば、それはパウロ自身を拒んでいるのと同じです。

 パウロはさらに言葉を続けます。

 「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。」(フィレモン18-19)

 実際、オネシモがフィレモンに対してどれほどの損害を与えたかはわかりません。ただ奴隷としてフィレモンに仕えていたオネシモがパウロのいるところまで逃げてくるには、一文無しの飲まず食わずできたとは思えません。フィレモンの家を出るときに、お金や食べ物を持ち逃げしたかもしれません。あるいは、オネシモがいなくなったこと自体がフィレモンには損失であったかもしれません。当然、オネシモが担当していた仕事が滞ってしまいます。その分の埋め合わせをするために損害を被ったということは十分あり得ます。

 しかし、どんな損害であれ、損害や負債があるのであれば、パウロ自身がそれを請負い、自分でそれを支払うことを約束します。損害の金額がどれほどになるのかもわからないのに、それを自分の借りにしておいてほしいというのは、ある意味、無謀な発言かもしれません。実際、獄中のパウロにどれほどの金銭的な余裕があったのかは、想像してみればわかることです。

 しかし、それでもあえてこのことを口にしたパウロには、ご自身を身代金として命を捨ててくださったイエス・キリストの姿があったのかもしれません(マルコ10:45)。パウロにとって自分が今あるのは、十字架で命を捧げてくださったこのキリストがいてくださったからです。そうであるとするなら、オネシモのために自分を捧げることは、パウロにとっては当然のことと思えたのでしょう。

 パウロはさりげなく「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」(フィレモン19)と付け足します。このパウロの言葉を、恩着せがましい発言と受け取るのは正しくありません。パウロはフィレモンが救われたのはパウロのおかげだなどと、恩を売っているわけではありません。そうではなく、誰もが貸し借りの中で生きている事実、とりわけ神に対して負うところははかり知れないことを思い起こさせるための発言です。神から罪を赦されていながら、仲間の罪を赦せないとしたら、それは神の恵みを無にしてしまうことです。

 さらにパウロは言葉を続けて、今度はフィレモンの心情に訴えて願いを聞き入れてもらおうとします。

 「そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。」(フィレモン20)

 「喜ばせてもらいたい」「心を元気づけてください」とパウロが述べる背景には、このことでパウロがどれほど心を痛め、悲しみを感じたのかということがあるように思われます。「わたしの心」と訳されている言葉は、「はらわた」を意味する言葉をあえて使っています。ですから、このことのためにパウロがどれほど心痛を感じたか、想像することができます。しかし、このオネシモの問題が解決されるなら、それこそ、心の荷が解かれて、喜びで満たされます。それはパウロの心もそうでしょうが、フィレモンにとってもオネシモにとってもそうです。悲しい結果に終わるのではなく、主にある喜びこそ、パウロが願っていることなのです。

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