メッセージ: 愛に歩む(2ヨハネ4-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会の歴史をざっくり顧みると、イエス・キリストと生活を共にし、直接教えを受けた十二使徒たちが生きていた時代と、使徒たちから地域的にも時代的にも離れている世代とが直面する問題とでは、大きく異なるに違いないだろうという想像は容易につくと思います。
実際、初代教会が最初に直面した問題は、ユダヤ教との問題でした。キリスト教会にとっては、律法の書も預言書も共通の基盤でした。礼拝を守るのも同じユダヤ教の会堂でした。しかし、キリスト教会が異邦人社会に浸透していくにつれて、すぐにも割礼の問題でユダヤ教とは一線を画するようになりました。やがてはユダヤ教の側でもキリスト教徒を会堂から締め出すようになったため、そのことはキリスト教会の安息日の理解にも大きな影響を与えるようになりました。
また異邦人社会へキリスト教が浸透していくことで、土着の宗教や生活倫理との衝突も避けられませんでした。初代のキリスト教会が直面した問題の多くは、こうした外の世界との対立からくるものであったといっても言い過ぎではありません。
使徒たちが世を去り、使徒たちから直接教えを聴くことができない時代に入ると、教会内部から、キリスト教信仰を巡る問題が起こってきます。もちろん、そのことが起こるのは、使徒たちが地上から徐々にいなくなっていったことと直接関係があるとは必ずしも言えません。これまで、外部からくる戦いの中で、真のキリスト教とは何かが意識されるようになり、キリスト教信仰の明確化が進んでくるのは必然的なことだからです。
ヨハネの手紙が書かれた時代には、正統的なキリスト教信仰と異端的なキリスト教という区別が意識されるようになって来たようです。「正統」とか「異端」という言葉こそ使われませんが、キリストに従うと同じような告白をしながらも、真理に立つ側と、そうではない反キリストとの対立は明確に意識されるようになっています。
そのことを念頭に起きながら、きょうの個所を学んでいきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙二 4節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
前回の学びでは、当時の手紙の様式に従って書かれたこの手紙の冒頭部分を学びました。きょう取り上げた個所はそれに続く部分です。実はこの部分も当時の手紙の様式にのっとって書かれていると言われています。
パウロの手紙もそうですが、冒頭の挨拶に続いて記されるのは、受取人についての喜びや感謝の表明です。パウロの手紙の場合には、神への感謝という形でそれが表明されていました。例えば、テサロニケの信徒への手紙一では、挨拶の言葉に続いてこう記されます。
「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」
そして、それに続いて、テサロニケの教会の人たちについて見聞きした称賛すべき点が列挙されています。
このヨハネの第二の手紙では、「感謝しています」という言葉ではなく「大変うれしく思いました」という言葉が使われています。ここで使われている「うれしく思う」という言葉は、聖書の中では「喜ぶ」と訳されることが多い言葉です。ただ一箇所、使徒言行録15章23節では「挨拶いたします」と翻訳されています。実はこの言葉は、ギリシア風の手紙の中では、手紙冒頭に出てくる挨拶の表現なのです。
日本語の手紙でも冒頭部分に「ご健勝のこととお喜び申し上げます」と書くのは、手紙の形式にのっとった書き方です。もっとも形式的な言葉であるために、本当に喜んでそう書いているのかは、疑わしいこともあります。
この手紙では「喜んでいます」ではなく「喜びました」と過去形で記されています。誰かが宛先人についての情報をもたらしてくれたために、その情報に触れてうれしく思ったその思いを表明しているように読むことができます。つまり、形式的な挨拶の言葉としてこの言葉を使っているのではなく、ほんとうにうれしく思ったその喜びの表現と理解すべきでしょう。
その喜びの中身ですが、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいる」ということを知った喜びです。
前回も触れましたが「あなたの子供たち」というのは比ゆ的な表現で、この手紙の受取人である教会の信徒たちを指す言葉です。つまり、信徒たちが真理に歩んでいる姿を喜んでいるということです。
ところがここで気になるのは、「子供たちの中に」という言い方です。これはある信徒たちは忠実に真理の内を歩んでるいるが、そうでない者たちもいるという意味を言外に含んでいるとすれば、手紙の著者の喜びの意味あいも違ってきます。
来週取り上げる7節以下には、「惑わす者」「反キリスト」のことが出てきます。その者たちは、キリスト教とは全く関係のない人たちではありません。キリストの教えを超えて、それに留まらない人であると言われています。そうとは知らずに、同じキリストを伝えている人だと思い、教会に招き入れ、その教えに傾倒していく信徒たちも出てきているようです。
「子供たちの中に」とわざわざ書いているその背後に、この教会が直面している問題があるのだとすれば、そのような中で真理にとどまる人々がいることは、ヨハネにとって文字通り大きな喜びであったはずです。
さて、ヨハネがこの教会に望んでいることは、決して新しいことではありません。ヨハネはそれを「初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということ」であると述べます。
互いに愛し合うことは、最後の晩餐の席上で主イエス・キリストから「新しい掟」として教えられたことでした(ヨハネ13:24)。しかし、この手紙の作者にとっても、受取人にとっても、それは「新しい掟」というよりは、主から受け継いだ最初からある掟であり、教会がよって立つべき大切な掟です。
6節でヨハネは「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」と記しています。一見、論理が循環してしまっているように見えるかもしれません。ヨハネが言いたいことは、おそらく、主イエス・キリストが律法を要約して、神への愛と人への愛を説かれたことに通じているのだと思います(マルコ12:29-31)。愛を中心に生きるとき、律法が全うされるというパウロの教えにも通じています(ローマ12:8-10)。
それにしても、何故、ここで「真理」とならんで「愛」を重要なこととして取り上げているのでしょうか。それは異端者たちが持っているイエス・キリストに対する教説と深く関わってるように思われます。ヨハネの手紙から浮かび上がってくる反キリストの教えは、キリストの受肉を否定的に捉える教えです。それは肉体を価値のないものとして極端に退ける教えです。そのような教えからは、神の掟が命じる愛に生きることすらも軽んじられてしまうからです。