聖書を開こう 2021年3月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  ヨナの不満(ヨナ4:1-5)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 主イエス・キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃいました(マタイ5:44)。そうおっしゃた背景には、当時のユダヤ人には「隣人を愛し、敵を憎め」という先祖伝来の常識があったからです。

 そして、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る理由として掲げたのは、天の父なる神が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからだ」とおっしゃいました(マタイ5:45)。そこには万人に対する神の普遍的な憐みと慈しみに対する信仰がありました。

 今学んでいるヨナ書も、実はこの神の普遍的な憐みと慈しみに対する信仰がテーマとして問われています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 4章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。

 今までヨナ書を学んできましたが、なぜヨナが最初にニネベに行くように神から命じられたとき、ニネベとは真逆の方向にあるタルシシュに向かって逃亡したのか、その理由は明らかにされてきませんでした。読者はその理由をいろいろと想像しながら読み進めるほかありません。しかし、最初から理由を明かさないのは、ある意味、ヨナ書の意図的な文章技巧であるように思います。

 逃亡の理由をあれこれと考えることで、ヨナの立場に自分を置いて真剣にヨナ書を読むことができるからです。あるいは、逆にその理由がまったく思い当たらないまま読み進めるときに、その理由が明かされて、いっそうの驚きを感じることができるためです。

 先週は再び神からの命令を受けて、今度は命令にしたがってニネベの町へ出向いて行ったヨナの姿を学びました。そして、命じられた言葉をそのまま伝えると、ニネベの町の住民たちは、王様から家畜に至るまで、悔い改めの姿勢を表し、神の憐みにすがろうとしました。その結果、神は下そうとしていた災いを思い返されたというのです。

 きょう取り上げた個所では、まさにこのことが、ヨナにとって怒りがこみ上げるほど不満であったと記されています。ニネベの住民が自分たちの罪を認めて悔い改めることが、想定外のことだったからでしょうか。そうではありません。ヨナ自身の言葉によれば、ヨナがまだ国にいたときに言った通りのことが起こったからです。しかも、ヨナはこうなることがわかっていた、と自信たっぷりに語ります。なぜなら、神は恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富んでおられることを知っていたからです。その慈しみは、下そうとしていた災いをも思い直されるほど確かなものです。

 ヨナが予想した通りのことが起こって、なぜ怒りがこみ上げるほど不満なのでしょうか。確かに、「ニネベの町は滅びる」と預言した言葉が、結果として成就しなかったのですから、ヨナは偽預言者の汚名を帰せられるかもしれません。それがわかっていて、しかもそれが嫌で、怒りがこみ上げるほどの不満を感じたというのでしょうか。そうではありません。

 ヨナにとって最大の不満は、神がすべての人に対して恵みと憐みの神であることです。何と心の狭い預言者だと思われるでしょうか。自分たちだけが神の恵みの対象であると考える、何と特権意識の高い預言者だと思われるでしょうか。

 しかし、考えてみてください。自分を苦しめた人を人は簡単に赦すことができるでしょうか。自分が被害者であれば、頭では赦さなければいけないとわかっていても、簡単には赦すことはできないでしょう。被害が大きければ大きいほど赦すことは難しくなります。あなたに被害を与えた人が、あなたと同じ天国に入れます、と聞いて心穏やかでいられなくなるのは当然です。

 ヨナは自分が予想した通りの望まない事態が、自分の目の前で起こって、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」とさえ神に訴えます。まるで聞き分けのない駄々っ子のように思われるかもしれません。けれども、ヨナにとってはそれ程の不満だったのです。

 しかし、まさにそのことが、ヨナ書の重要なテーマなのです。神は不満で怒りがこみ上げているヨナに対しておっしゃいます。

 「お前は怒るが、それは正しいことか。」

 ヨナは、この神の言葉をどう受け止めたのでしょうか。この言葉を聞いて取ったヨナの行動は、ヨナが神の言葉をどう受け止めたのか、考えるヒントになるかもしれません。

 神の言葉を聞いて、ヨナはニネベの都を出て東の方に座り込みます。座り込んだのは、ニネベの都に何が起こるかを、最後までじっくりと見届けるためでした、イスラエルとの位置関係から考えると、イスラエルとは反対の側から町を 眺めることになります。昇ってくる太陽を背に、明るく照らし出された都の行く末をしっかりと見届けようとする気概が感じられます。

 もしかしたら、恵みと憐みに満ちた神は、ヨナの気持ちをくみ取って、思い返した災いを、もう一度思い直してくださるかもしれないと、そうヨナは考えたのかもしれません。神から指摘されて、短絡的な怒りを恥じ、最後の最後にどんなどんでん返しが起こるのか、ヨナはそれを期待したのかもしれません。

 残念ながら、ヨナは「お前は怒るが、それは正しいことか」と問いかける神の御心を十分に理解することはできませんでした。しかし、神はそのヨナに対してさえも、忍耐深く接してくださいます。頭では理解しているつもりの神の恵みと憐み、神の慈しみと忍耐を、その広さ、長さ、高さ、深さを悟らせてくださいます。

 神はそれをどのようにヨナに悟らさせてくださるのでしょうか。この続きは来週のお楽しみに。

Copyright (C) 2021 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.