キリストへの時間 2021年3月7日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

申成日(広島教会牧師)

申成日(広島教会牧師)

メッセージ: イエスのたとえ話1「種を蒔く人のたとえ」



 おはようございます。広島教会で牧師をしております、申(シン)と申します。
 今日から1か月間、4回にわたって、聖書の中に記されているイエスのたとえ話をお聞きしたいと思います。今日はその最初として「種を蒔く人のたとえ話」です(マタイ13:1-9参照)。

 ある人が畑に種を蒔きます。しかし種はすべて同じ所に落ちるのではなく、4つの土地に落ちました。道端、石地、茨の中、良い土地です。それぞれの土地に落ちた種はそれぞれ違った結果をもたらしました。道端に落ちた種は、人々に踏みつけられ空の鳥が食べてしまった。石地に落ちた種は、芽は出たが水気がないので枯れてしまった。茨の中に落ちた種は一緒に伸びた茨に押しかぶさってしまった。しかし、良い地に落ちた種は100倍の実を結んだ、ということです。

 このたとえ話だけを聞きますと、「種を良い地に蒔く」ことを教えているような感じがします。もちろんたとえですから、「良い地に蒔く」というのが何を意味しているのか、それを見抜く必要があります。当時パレスチナ地域の畑というのはそれほど良い事情ではなかったようです。まるで山の一角を耕すようで、石も多く、耕すことが難しかったそうです。道端というのは畑と畑の間の人が通る細い道のことであり、石地というのは畑を耕す時に出てきた石を集めた、他の畑との境界を作った所だそうです。茨の茂みは耕した畑の周りに多くありました。

 種は麦か小麦ではないかと言われていますが、丁寧な種蒔きではなく、大雑把な蒔き方だったようであります。とにかく蒔かれた種は同じ種です。もちろん中には健康な種とそうではない種も混ざっているのでしょうが、このたとえ話ではそのことには関心がありません。同じ種が蒔かれただけであります。

 そして、種を蒔く人も同じです。種を蒔く人はわざわざ4つの場所に種を蒔いたのではありません。蒔く人にとっては良い実を結ぶことを願っているでしょう。しかし、全部良い地に落ちたのではなく、道端や石地、茨の茂みに落ちることもあります。結局、種がどんな地に落ちたのかが問題です。

 主イエスは聖書の中で、このたとえ話の意味を語られました(マタイ13:18-23参照)。
 種は神の言葉を意味しています。4つの土地の種類は、この神様の言葉を受け取る人の心を表します。道端というのは「御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たち」です。石地のものとは「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと」です。3番目に、茨の中に落ちたのは「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たち」のことを表します。最後に、良い地に落ちたのは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」を意味します。

 結局このたとえ話の説明を読むと、「どのような地に種を蒔くのか」という問題よりも、その種を受ける側、つまり神の御言葉をどんな心で受け止めるのか、神様の御言葉に対してどんな心を備えるのかが問題なのです。そして、このたとえ話を通して主イエスが我々に語ろうとされたメッセージとは、まさに「神の御言葉を聞く時、良い土地のように、それを聞き、良く守り、忍耐して実を結ぶ心を求めておられる」ということです。良い土地が、蒔かれた種を育て上げ、立派な実を結ぶように、わたしたちの心も、神様の御言葉を受け取って、その御言葉をわたしたちの生活において実を結ぶような、そういう信仰になりたいものです。

 しかし同時に、わたしたちは自分たちの弱さを覚えています。この御言葉を聞く時、わたしたちは自分がどれに当たるか、考えていると思います。そして「決して良い地でない」しかし「その良い地になりたい」という気持ちでいっぱいだと思います。だからこそわたしたちには祈りが必要です。また、わたしたちは御言葉を聞く機会が続けられていることに感謝したいと思います。この続けてわたしたちに語られた御言葉がわたしたちの心に蒔かれ、信仰の実を結ぶことを期待しながら日々を歩みたいと切に思います。



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