おはようございます。2021年1月を担当します忠海教会の唐見です。
旧約聖書の中にルツ記という書物があります。分量もそれほど多くなく、初めて旧約聖書を手にする方にとって読みやすい書物のひとつです。ジャン=フランソワ・ミレーをはじめ、いろいろな人が「落穂拾い」をテーマにした作品を残していますが、ルツ記は同じ旧約聖書のレビ記とともに、落穂拾いの背景が描かれている聖書の一つです。
キリスト教とユダヤ教はともに旧約聖書を神の言葉として受け入れています。しかし、その受け入れ方には違いがあり、書物の配列の仕方にもそれが表れています。キリスト教ではルツ記をイスラエルの歴史の一場面として前半部分に置いているのですが、ユダヤ教では律法と預言書以外の諸々の書物として、後半部分に配置しています。そして同様に諸書として取り扱われる雅歌、哀歌、コヘレトの言葉、エステル記と合わせて、ハメシュ・メギロット、直訳すると5つの巻物という意味ですけれども、ユダヤの祝祭日に読まれるべき書物としています。
ルツ記はユダヤ教のペンテコステに朗読することになっています。なぜペンテコステにルツ記を読むのかについては、いくつかの理由があります。ひとつはルツ記の物語がちょうど同じ時期にあたるからです。ナオミとルツが夫と息子を亡くして失意のうちに故郷のベツレヘムに戻るのは、大麦の刈り入れの始まるころでした(ルツ1:22参照)。そしてルツは生計のために落ち穂拾いをするのですが、そこでボアズに出会い、やがて二人は結ばれます。ルツ記の物語は、過越しの祭りからペンテコステにかけての期間に展開されていきます。
別の理由として、ダビデ王の出自を示す書物という側面を持っていることが挙げられます。イスラエル・ユダヤの最も偉大な王として支持されるダビデ王は、ペンテコステの日に生まれ、またペンテコステの日に亡くなったことになっています。ボアズとルツはオベドをもうけ、オベドから、エッサイ、そしてダビデに至ります。ルツ記を読むということは、必然的にダビデ王について知ることになり、それは彼らにとって輝かしい栄光の歴史に思いをはせ、民族のアイデンティティを再確認する機会になります。
キリスト教のペンテコステでは特にルツ記を読む慣習はありませんが、キリストの教会とはどのような共同体なのかを知るうえで、教会の誕生日であるペンテコステに読むのはふさわしいのではないかと考えます。
新約聖書の最初の書物、マタイによる福音書の冒頭に置かれているのは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(マタイ1:1)です。そしてこの系図のなかにルツも含まれています。ですからルツ記はダビデ王の出自を示すにとどまらず、主イエス・キリストに続く物語であるといえます。
そして特に重要なことは、ルツがイスラエル人ではなく、異邦人、モアブの女性であったという点にあります。旧約聖書の時代、イスラエル人はモアブ人に対して、明確に敵とはみなさないけれども、かといって仲間でもないというスタンスを取っていました(申命記2:9、23:3-6参照)。ルツは非常に微妙な立場に置かれていたわけですが、迷うことなく主なる神を信じ従う道を選び、神の民の一員に加えられました。
ペンテコステの日、あらゆる国の言葉で福音を語ることによって産声を上げた新約の教会は、人種や民族の違いだけでなく、性別、職業、貧富など、この世界に存在するありとあらゆる違いを乗り越えることのできる共同体です。使徒パウロは「神は人を分け隔てなさいません。」(ローマ2:11)、また「そこではもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28)と証言し、実際にさまざまな国の人々に福音を宣べ伝え、教会の仲間として受け入れていきました。
キリストの教会は常にすべての人に対して開かれています。いま番組をお聞きのあなたにも、です。