ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。
教会に行くと、罪とか裁きとか、赦しとか恵みとか、そういうことを教えられます。そんなことから、はじめのうち私は、何となく神様を裁判官のようにイメージしていました。それで、裁きを受けないようにちゃんとしないと、と思ってしまいました。
ところがルカによる福音書15章に、神様のことをたとえるものとして、放蕩息子の話があります。父親から相続財産の分け前を先にもらって、それで旅に出て、放蕩に身を持ち崩す息子がいます。その息子を父親がずっと待ち続けているという話です。
息子が一文無しになって、父のもとに帰って行くと、父親はまだ遠くにいる息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して迎えるというものです。さらには帰ってきたというので、宴会まで催します。普通なら「どのつらさげて帰って来た」と、どなりつけてもよさそうなものです。しかしイエス様はその話を通して、神様というのは、その父親のようなお方だと教えられたのでした。
神様を信じるというのは、そういう父なる神様のもとに立ち返ることだと言ってもいいのです。キリスト教を信じるというのは、そういう憐れみ深い神様を、親しく父と呼ぶことができるようになる、ということでもあります。ですからお祈りのときも「天の父なる神様」と呼ぶのです。神様は私たちを「神様の子」とみてくださるのです。
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