聖書を開こう 2020年1月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  罪を犯さないようになるため(1ヨハネ2:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 一度、聖書の神を知った人ならば、誰でも罪とは決別した生き方をしたいと、そう願うはずです。しかし、聖書の神を知り、イエス・キリストの救いを信じ受け入れても、なお、完全に罪から解放されない自分を見るときに、失望してしまうことがしばしばです。それはクリスチャンにとって、誰もが一度は抱く悩みの一つではないかと思います。

 もちろん、清さの基準を引き下げれば、悩む必要などかもしれません。しかし、聖書の神の清さを知っている者にとっては、その妥協すらできません。それは、きれい好きな人ほど、徹底してきれいにしたくなる心境に似ているかもしれません。きれい好きな人ほど小さな汚れすら気になるものです。

 あるいは、既にすべての罪はキリストにあって赦されているのだから、現実の自分がどうあれ、そんなことは関係ないと、割り切ってしまえば気持ちは楽かもしれません。しかし、聖書をどう読んでも、罪のうちにとどまり続けることが良いことだとは読めません。

 あるいはまた、罪は肉体に関わることで、内なる霊は清められているから大丈夫、とおかしな論理を持ち出すこともできるかもしれません。しかし、聖書は罪が肉体だけの問題ではないことをはっきりと記しています。そもそも、一人の人間を霊魂と肉体に分離して、罪が霊魂と関係のないことのように描く教えなど、聖書にはありません。

 そうであるとするならば、キリストを信じて救われたものが、なお罪を犯してしまう現実を、信仰者としてどう受けとめたらよいのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 2章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

 この手紙の冒頭に、この手紙を書いている目的が、次のように記されていました。

 その一つは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに読者をあずからせるためでした(3節)。そして、もう一つの目的は、一番目の目的と切り離すことはできません。それは、喜びが満ちあふれるようになる、ということでした(4節)。まことの命を回復され、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりにあずかるときにこそ、まことの喜びが満ち溢れるからです。ほんとうの喜びは神との交わりの中に加えられた結果ということができます。

 しかし、神との交わりを引き裂こうとするのが、罪の働きです。実際、人類最初の罪は、神から人間を引き離してしまいました。もちろん、神はその状態を放置されたのではなく、回復へと救いの道を備えられました。しかし、罪があるところ、神との間には深い溝があるのも事実です。

 そうであればこそ、ヨハネはきょう取り上げた個所で、「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためだ」と書き記します。確かに、罪を犯さないようになれば、神との交わりの中に喜びをもって生き続けることができるはずです。

 しかし、ヨハネは「罪を犯さない」ということが、そんなに簡単なことではないことを知っていました。そうであればこそ、そう述べたすぐ後に、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と述べています。

 キリストを信じて神との交わりの中に生きる者には、「罪を犯さないようになる」という大きな目標が与えられていますが、同時に弁護者であるキリストが、わたしたちのために与えられているということです。キリストを信じて生きるということは、決して荒野の世界に掘り出されることではありません。自力でそこから抜け出してくることを、ただ神は待っておられるということではありません。そうではなく、全世界の罪を償ういけにえであられるイエス・キリストが、弁護者として信じる者のそばにたって、ともに歩んでくださっているということなのです。助け主イエス・キリストが支えてくださるからこそ、罪の裁きを恐れることなく歩み続けることができるのです。

 神との交わり、ということを考えるとき、神をほんとうに知らなければ、神との交わりの中に生きることはできません。その場合、神をどう知るのか、ということが大切です。神についての知識は、確かに大切です。しかし、どんなに神についての知識を聖書から知っていたとしても、それは神を知っているというのとは程遠いものです。例えば、わたしの身長や体重、趣味や住所を何かで調べて知ったからと言って、わたしを知っているとは言えないのと同じです。わたしと生活を共にしなければ、ほんとうのわたしなど知ることはできません。

 ヨハネは、「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はないと断言します。ヨハネにとって神を知ることと、神の掟を守ることとは、密接に関係しています。

 神の掟、神の言葉を守る、とヨハネが言うとき、ヨハネはいったいどういうことを考えていたのでしょうか。

 神の掟を守る、というと、道徳的に正しく歩む、ということを真っ先に連想するかもしれません。たしかに、正しい道を歩むべきことは、聖書が命じているとおりです。しかし、聖書はいつも、そうできない人間のことを無視して、善いことをするようにと命じているだけではありません。

 旧約聖書の律法には、高い倫理が示される一方で、それに従うことができなかった場合の償い方も示されていました。人間に背負いきれない罪に対しては、動物の犠牲をもって賠償に代えることを良しとしてくださいました。そのことも含めて、神の掟を守ることが求められていました。

 キリストが現れた今、キリストご自身が罪の贖いの犠牲であると同時に、罪人を弁護してくださるお方です。神の言葉を守るとは、そのことを信じて歩み続けることです。そのとき、罪人に対する神の愛が自分自身の上に注がれていることを感じることができます。そのことこそが、神の愛に留まる生き方です。自分に注がれている神の愛に気がつくときに、人は罪から離れた歩みへと導かれていくのです。

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