おはようございます。「キリストへの時間」をお聞きのあなた、いかがお過ごしでしょうか。広島県竹原市にあります、忠海教会の唐見敏徳です。今回が4回目、そして今月最後のメッセージとなります。
今月は、聖書の登場人物をひとりずつ取り上げて、その人物の生涯の転機あるいは変化についてお話ししてきました。これまでモーセ、マリア、ペトロの三人を取り上げてお話ししましたが、最後の今日は、主イエス・キリストに絞ってお話しします。
これまでモーセの召命の場面、マリアへの受胎告知、ペトロの主イエスの否認という、それぞれの人生において強いインパクトを与えた出来事を取り上げてお話ししてきました。同じように、主イエス・キリストに関して、同様の出来事を探そうとするとき、実はしっくりとくる場面がないのです。
主イエスの生涯の中で、特筆すべき場面がまったくない、ということではありません。それどころか「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と語られた公生涯の始まりから十字架の死、そして復活、昇天と、印象的な場面は数多くあります。しかし、それらの出来事が、主イエス・キリストの人生の転機になり、その後の歩みに変化をもたらしたのか、というとそうは言えないのです。
たとえば、前回取り上げたペトロが主イエスを裏切る場面ですが、これは主イエス御自身にとっても衝撃的な出来事のはずです。実際は、ペトロだけでなく、イスカリオテのユダはもちろんのこと、他の弟子たちも含めて、これまで一緒に神の国の福音を宣べ伝えてきた弟子たちが皆、自分から離れ去ったのです。
また、その後に続く十字架刑の苦しみは、人の心をへし折るのに十分な出来事のはずです。むち打ちの後に十字架につけられた、肉体の苦しみだけではありません。つい数日前まで「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ21:9)と主イエスを賛美していた人々が、いまや「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫び、侮辱と嘲笑を浴びせてくるのです。
これらの悲惨な出来事にもかかわらず、聖書が語ろうとしているのは、主イエス・キリストがまったく変わらないお方だということです。主イエスは、敵をも愛し、そして愛する者のために命を捨てるという、完全な愛を体現する存在として、決して変わることのないお方だと聖書は伝えています。
主イエス・キリストの変わらない姿に関して、使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で次のように記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6-9)
人生においては思いがけない出来事が起こります。それが望ましいことであっても、望ましくないことであっても、わたしたちはそれを避けることができません。被造物にとって未来はいつも不確かで、もし確実なことがあるとしたら、それはやがて死ぬということでしょう。
しかし、そのような不確実さを常に抱えて生きざるを得ないわたしたちに、確かな希望が与えられていることを聖書は力強く語ります。どのようなときにも変わることのないお方、主イエス・キリストこそ、その希望です。人間の弱さを知り、それを受け止め、愛してくださるお方は、主イエスを信じる一人ひとりの歩みを、永遠に変わることのない愛で守り、支えてくださるのです。