おはようございます。「キリストへの時間」をお聞きのあなた、いかがお過ごしでしょうか。広島県竹原市にあります、忠海教会の唐見敏徳です。
今月は人生の転機や変化にまつわることをテーマに、聖書の登場人物、そしてその人物に関する出来事からメッセージしています。今回は十二使徒のひとりシモン・ペトロ、そして彼が主イエス・キリストを否んだ場面からです。
最初期の弟子であるシモン・ペトロは、もともとガリラヤで漁師をしていました。主イエス・キリストがガリラヤで宣教を始められたとき、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われ、兄弟アンデレ、そしてゼベダイの兄弟ヤコブ、ヨハネと同じく、ペトロはすぐに主イエスの召しに応え、弟子となりました。主イエスから特別な12人の一人として選ばれた彼は、主イエスの公生涯のほぼすべてを共にし、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天後は、新約の教会の担い手として活躍しました。
ペトロという名は、岩という意味ですが、おそらく彼の持つ風貌や性格、信仰がごつごつした固い岩のようだったのでしょう。首都エルサレムから見て北の果ての辺境の地ガリラヤの漁師だったわけですから、教養があり洗練された人物ということではなかったでしょう。その代わりに素朴な魅力が彼にあったことを、福音書、使徒言行録、またいくつかの手紙からうかがい知ることができます。
そのような彼ですから、あの過越の晩、弟子たちを前に主イエスが「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたときに、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と答えたのはごく自然なことでした。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスから続けて言われても、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と彼は主張しました(マタイ26:31-35参照)。
しかしながら、結局、彼はその言葉とは真逆のことをしてしまうのです。その夜、ほどなくして、主イエスは十二使徒のひとりであるユダの手はずによって捕らえられ、裁判にかけられることになります。その裁判の様子を遠巻きに眺めるペトロは、その場に居合わせた人々に、お前もあのイエスの仲間だろうと問い詰められ、最後には呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と言ってしまいます(マタイ26:69-74参照)。
その瞬間、鶏の鳴く声が響き渡り、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタイ26:34)という、あの主イエスの言葉を思い出すのです。そして彼は激しく泣いた、と福音書は記しています。あまりにもひどい過ちを犯してしまった、ということを思い知らされたからです。
このペトロの裏切りの記事をどのように理解し、受け止めたらいいのでしょうか。ひとつの大きな手がかりは、まさに御自身を否んだペトロを見ておられた主イエスのまなざしです。そこには、怒りや憎しみの感情はまったくありませんでした。逆に、もはや取り返しのつかないほどの過ちを犯したペトロに対して、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と語りかけているようなまなざしでした。
そして、ペトロはこの大きすぎる失敗のあと、そのまま失意と絶望の中に沈んでいたのではありませんでした。十字架の死を経て、復活の主に出会った彼は、確かに立ち直り、主にある兄弟姉妹を力づける者として、初代教会で活躍しました。
主イエスは、わたしたちの失敗を、それがどれほどひどいものであったとしても、受け止めてくださるお方です。ペトロに対してそうであったように、わたしたち一人ひとりに対して、そこから立ち直り、主に従って歩むように力づけてくださいます。