熊田なみ子のほほえみトーク 2019年2月26日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

小さな朗読会234「目的を知る人生」
(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)

 動物と比べたときの人間の特徴は何でしょう。色々な答えがあると思いますが、生きることの意味や目的を考えることも、大事な特徴の一つだと思います。動物でも生きる方法を知っており、またそれを追求していますが、生きる意味や目的を追求しようとはしません。人間だけが、自分の生きている意味・目的を考え続け、求め続けるのです。

 ですから、私たちが生きていくための技術や知識をどれほど高度に身につけたとしても、生きることの目的を考えることをやめてしまうならば、私たちは人間らしさを失い、複雑化したサルに過ぎないような惨めな存在となり果てるのです。

 人生の目的を知ることは、私たちに勇気を与えます。人は、どれほどに平穏な日々であっても、無意味・無目的な日々に耐えられません。逆に、大きな辛さ苦しさであっても、目的のはっきりした辛さ苦しさには耐えることができ、かえって張りのある日々を過ごすこともあります。人は、人生の正しい目的を知る時に、はじめてその生涯を生き生きと過ごすことができるのです。

 それでは、どのような目的が、人生の正しい目的なのでしょうか。いくつかの条件があると思います。

 第一にそれは、私たちがその為に命をかけても悔いのないものでなければなりません。何かのために生きるということは、そのために限りある命を費やしているということなのです。富を求め続ける人も趣味を求め続ける人も、それらを自分の命と引き換えに、手に入れようとしているのです。命と換えても惜しくないもの、それは何でしょうか。

 第二にそれは、射程の長い目的でなければなりません。人生の途中で用済みになってしまう目的があります。入試、結婚、職業、育児。どれも誤った目的ではありませんが、人生第一の目的とするには、射程が短すぎます。私たちの人生が終わりまで用なしの人生とならないためには、人間の本質に触れた、もっと射程の長い目的が必要です。

 第三に、その目的は、どのような短い生涯にも実現できるものでなければなりません。私たちにいつ死が訪れるのか、誰も分かりません。不意の早過ぎる死によって、私たちの人生が準備段階の人生として終わるとしたら、私たちはひどく不確かな人生を送っていることになります。

 第四に、最も大事なことは、その目的は、人間の適性に沿ったものでなければなりません。そのために生きることが、人を豊かにし、充実と喜びを与えるものでなければなりません。

 「人生は何ごとかなすには短すぎるが、何事もなさないでいるには長すぎる。」ある小説の主人公のセリフです。正しい人生の目的を持てない人にとって、人生の短さは心を挫き、人生の長さは倦怠を与えます。上にあげたような条件を満たす人生の目的はなかなかありません。どれもこれも、「帯に短しタスキに長し」です。それでは、キリスト教信仰の答えは何でしょうか。

 「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」これは、ウェストミンスター小教理問答書の答えです。「永遠に神を喜ぶ」。人が命をかけても悔いのない永遠の喜びを、この目的は与えます。

 また、この目的は人生の終わりを通り越し、永遠の射程を持っています。

 さらに、この目的は、人生のどの段階でも実現できるものです。聖書は「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべき」だと教え(1コリント10:31)、感謝して食べる者を、神のために生きる者としています(ローマ14:6〜9)。日々の生活の中で神を信じ感謝し、神に服従すれば、それが神の栄光のための生き方なのです。入試・結婚・職業・育児。その一つ一つの場面で私たちは、神に心を向け、信じ、頼り、感謝し、従います。そして、それら、すべての目的が用済みになってもなお、私たちは神に心を向け、信じ、頼り、感謝し、従うことができるのです。長い人生も倦むことなく、短い人生も失敗に終わることがありません。

 最後に、最も大事なことは、この目的こそが人間に最も向いている目的だということです。人は誰でも真善美に憧れるといいます。真理を愛し、善を追求し、美しいものを喜ぶ心は、万人共通のものでしょう。けれども、もう一つ足りないものがあります。それは、人格です。友との語らい、家庭の団らん。私たちは、真善美だけでなく、人格との触れ合いに飢えかわき、それを求めているのではないでしょうか。

 神は真理であり、善であり、麗しさのきわみです。しかし、神は抽象的な徳目ではなく、永遠の御人格です。真善美を求め、人格との触れ合いを求める私たちの欲求は、神に向けられてこそ、最も奥深くで満たされるのです。

 人格的存在である人間が、人格以下のものを第一の目的とすれば、自らを卑しくします。永遠の人格なる神こそ、第一の目的とすべきなのです。

 ※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
 ※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載 

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