ご機嫌いかがでしょうか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
わたしたち人間は、自分がした行いのゆえにではなく、存在そのものを無条件に愛され、受け入れられるとき、本当に安心することができます。聖書の御言葉で御自身をあらわしておられるまことの神は、わたしたち人間の存在そのものを無条件に愛しておられます。その愛は、どれほどの愛なのでしょうか。
聖書に次のような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「独り子」とは、神の独り子であるイエス・キリストのことです。神は、その独り子であるイエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛されたのです。ここの「世」とは、単に世界を指しているのではなく、罪あるわたしたち人間を指しています。そして、「独り子をお与えになった」とは、イエス・キリストが2000年ほど前にこの地上に生まれてくださったクリスマスの出来事を指しているのではないのです。そうではなく、「独り子をお与えになった」とは、神がその独り子であるイエス・キリストを十字架の上で死ぬという形で与えたという意味です。イエス・キリストが十字架の上で身代わりに死ぬほどに、あなたは神から愛されているのです。
そして、神の一方的な恵みの中で、あなたが神の独り子であるイエス・キリストを信じるときに、あなたは決して滅びることなく、永遠の命を得るのです。永遠の命とは、イエス・キリストを通しての神との親しい交わりであり、この地上で味わうことができるものであり、肉体の死を突き抜けることのできる命なのです。