聖書を開こう 2018年11月1日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  結婚と離縁(マルコ10:1-12)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私自身が初めて教会で行われる結婚式に出席したのは、学生時代、先輩の結婚式に招かれた時が初めてでした。商業ベースのキリスト教風の結婚式ではなく、信仰者同士が教会で行う結婚式でしたから、とても厳粛な雰囲気を感じました。

 それから牧師になり、今度は結婚式を司式する立場になって、何組かの結婚式に関わってきました。色々なカップルの結婚に様々な形で関わるたびに、結婚についての思いを新たにさせられています。

 さて、きょうの聖書の個所はイエス・キリストがお語りになった結婚と離縁についての教えです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 結婚という制度が、形はどうあれ、時代と民族を超えて存在することは、よく知られているとおりです。イエス・キリストによれば、それは天地創造の初めから、神が人を男と女とにお造りになったときからある制度です。しかし、同時に、男と女が結婚してくっつくと言うこともあれば、その反対に結婚した男女が離縁してしまうと言うこともまた、人類の歴史と同じくらい古くからあることです。

 これを自然なことと捉えるのか、あるいはやむをえないことと捉えるのか、はたまた、断じてあってはならないことと捉えるのか、人類の長い歴史の中で様々な考え方が生まれ、またそれにあわせて各国の法律の考え方も変遷してきました。

 きょうの個所で問題となっているのは、旧約聖書のモーセの律法の中に、夫が妻を離縁する場合の規定があるということに端を発しています。

 その個所とは申命記24章1節に記された規定です。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」

 確かに旧約聖書の中にこのような規定が存在すると言うことは事実ですから、聖書が何らかの形で離婚を認めているようにも思えます。そこで、この規定をどう理解したらよいのか、これがユダヤ人たちの間で古くから議論となっていた問題でした。

 この点に関してユダヤ教のラビたちの間で、ヒレル学派とシャンマイ学派の論争が有名でした。シャンマイ学派の立場は、先ほどの申命記の個所にいわれている「妻に何か恥ずべきことを見いだしたなら」という言葉を、「不品行」ということに限定して考えていました。つまり、妻が不品行の罪を犯した場合にのみ離婚は一定の手続きで成立すると考えたのです。

 それに対して、ヒレル学派の立場は、「恥ずべきこと」という言葉の意味を広く理解して、たとえば料理を焦がしてしまうと言ったことまでも離婚の理由に含むと考えていました。

 さらにキリストの時代からずっと時代が後になると、「気に入らなくなった」と言う言葉を拡大解釈して、とにかく妻より気に入った女性が現れただけで離縁できるとさえ拡大解釈されるようになっていました。

 そういう右から左まである離縁をめぐる問題に対して、ファリサイ派の人々は、イエス・キリストに対して、妻を離縁することが律法に照らして適ったことであるかどうかと尋ねます。もっとも、純粋な探求心から答えを求めている、というよりは、「イエスを試そうとしたのである」とあるように、一段上からの目線でなされた質問です。答えによっては、キリストの人気ぶりに水をさしてやろうとする悪意が見え隠れしています。

 そもそも、離縁をめぐるこのファリサイ派の人々の問いの立て方は、実は問題の本質を見失っていると言わざるを得ません。

 そこでイエスは問題の本質に立ち返って彼らにお答えになります。

 天地創造の時からの定めによれば、神が人を男と女とにお造りになり、神がふさわしい助け手として一人一人にふさわしい配偶者をお与えになっています。ファリサイ派の人々はこの大原則を見失って、離縁の合法性だけを切り離して考えようとしているのです。イエス・キリストはまずその点を指摘しています。

 キリストの答えは非常に明確です。この大原則にのっとって考えるならば、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という結論になるはずです。しかし、では、なぜ、モーセの律法がこの原則を破るような規定をしているのか、イエス・キリストは話を進めます。

 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」

 つまり、離縁は人間の罪によってもたらされたものであるとキリストは断言なさいます。神の本則を踏み外し、罪の縄目に縛られて、ついに神が結び合わせたものさえも破壊してしまう、そういう人間のための定めなのだとキリストはおっしゃるのです。

 従って、離縁そのものが神の定めを踏み外しているのですから、その離縁が神の律法に適っているかどうかという議論そのものがナンセンスなのです。しかし、それならば、どうしてこのような離縁に関する規定を神はお定めになったのか、その目的はどこにあるのでしょう。それは放っておけば無節操に繰り返す人間の身勝手さを制限するために他なりません。この旧約聖書の規定は拡大解釈して離縁の可能性を広げるための規定ではありません。そうではなく、むしろ例外的な制限的な規定ととるべきなのです。

 確かに、結婚生活というのは、絵に描いたような理想ばかりとは行きません。しかし、そうであればこそ、イエス・キリストがおっしゃる結婚の意義に心を留めなければならないのではないでしょうか。

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