聖書を開こう 2018年10月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  つまずきを除く(マルコ9:42-50)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会では「つまずく」とか「つまずき」と言う言葉をよく耳にします。国語辞典で「つまずく」という言葉を引くと、文字通りの意味の「つまずく」という意味が出てきます。つまり、「歩く時、足先を物に打ち当てて、前へよろける」ことです。第二の意味として、比ゆ的な用例が出てきます。「中途で障害にあって、失敗する。挫折する。事業につまずく」といった使い方です。大抵の国語辞典ではここまでの意味しか出てきません。ところが、キリスト教会で「つまずく」と言えば、何かの原因で信仰に疑問を抱き、これ以上信仰を維持することができないほどのことを言います。特にそのつまずきの原因は教会員自身であったり牧師であったりということがあります。

 さて、きょうの個所ではこの「つまずき」のことが取り上げられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章42節〜50節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしを信じるこれらの小さな者の1人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」

 マルコによる福音書の中でこれらの言葉が記されているのは、誰が一番偉いのかということを議論している弟子たちに対してであり、また、自分たちに従って来ようとしない人たちに、イエスの名によって活動することを禁じようとする排他的な弟子たちに対してです。そういう文脈の中できょうの言葉が記されています。

 まずはじめに、イエス・キリストを信じる小さな者をつまづかせる罪が問題にされます。

 「わたしを信じるこれらの小さな者の1人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」

 既に学んだように、弟子たちの間では、誰が一番偉いかということが盛んに議論されていました。イエス・キリストがその身に引き受けようとされているメシアの使命の重さを思うことなく、弟子たちは自分たちがメシアの王国の中でどれほどの地位にあるのかと言うことだけが関心の的でした。自分たちの無力さなど頭の中からすっかり抜け去って、ただ自分たちについてこないと言うだけで、人を見限ってしまう弟子たちです。

 そういう弟子たちであるからこそ、イエスはことさらに小さい者への関心を注ぐようにと弟子たちの注意を引きます。小さな子供を実際に弟子たちの真中に立たせて、このようなものを受け入れるようにと勧めました。また、水1杯しか貢献できない者たちでさえ、神の国の報いから漏れることはないと宣言されました。そして、今や、こうした小さな者たちを躓かせる罪の大きさが取り上げられます。

 強い者、大きな者は黙っていても自分の居場所を確保することができます。いえ、そればかりではなく、自分たちの居場所を確保するために、弱い者たちへのしわ寄せさえもいとわないと言うことさえあります。それが意図的になされるのであれば、言うまでもなく大きな罪です。しかし、無意識のうちに、というよりも小さな者たち、弱い者たちに対する意識や関心のなさから、犠牲やしわ寄せが弱い小さな者たちに及ぶと言うことがしばしばおこります。強い者、大きな者にとっては、それはたいしたことではないと感じられるでしょう。しかし、自分の存在や振る舞いや考えが、小さな者たちの存在を脅かしていると言うことにすら気が付きもしないと言うこともあるのです。

 そこで、イエス・キリストは小さな者たちを躓かせる罪が海に投げ込まれるに値するほど大きなものであることを指摘なさいます。

 ローマの信徒への手紙14章15節に「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」と言う言葉があります。これは、信仰が強いと自負している者たちが、信仰の弱い者を見下していたのに対して、使徒パウロが語った言葉です。キリストはこの弱い、小さな者のためにも十字架の上で死んでくださいました。キリストの弟子である者は、誰しも、このことを思い出すべきなのです。この小さな者をつまずかせ、信仰から遠のけてしまうことは、キリストの最も大切な救いの業そのものを否定することにつながってしまいます。

 そこで、イエス・キリストは少々大げさとも思える表現で、自分たちのうちから躓きの原因となるものを取り除くようにとお命じになります。

 それが片方の手であっても、片方の足であっても、片方の目であっても、取り除かなくてはなりません。

 もっとも、イエス・キリストがここでおっしゃりたいことは、手や足や目に責任を転嫁すると言うことでは決してありません。小さい者を躓かせるのは手や足や目であるはずはありません。むしろ、罪深い心そのものが改まるのでなければ、躓きの原因は取り除かれません。要は、どんな大きな犠牲を払ってでも、小さな者を躓かせた罪と向き合い、このことをどうでもよい些細なことと思ってはならないのです。

 そうすることが、小さな者、弱い者を神の国から締め出さないための秘訣であり、また、自分自身が神の国から締め出されないようになるための秘訣なのです。

 そもそも、小さな者とはだれのことでしょう。神の御前に大きな者など存在しません。皆等しく、救いを必要とする小さな者にすぎません。そのことを忘れて、尊大になるときに、小さな者をつまずかせても気がつかない鈍感なものになってしまいます。

 イエス・キリストは小さな者のために命を捧げて下さいました。このキリストが愛された者たちをわたしたちも愛し、尊ぶことが十字架のキリストに従うことにほかなりません。

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