おはようございます。平和の君教会の山下です。
昨年、私たちの教会の年間標語を、「祈りによる一致と祈りによって互いに高め合おう」としました。なかなか祈ることの少ない私たちが一緒に祈ることの出来る恵みと喜びとを与えられたいと願ったためです。それは、祈るべき課題が一杯あるのに、祈ろうとしない私たちのこれまでの信仰生活を悔い改める必要を強く覚えたからに他なりません。
今日の箇所は、使徒パウロがローマにある教会に対して、あなた方にも神様は祈れる恵み・幸いを豊かに与えてくださっている、だから祈りなさい、祈ってごらん、と祈りへの招きをされているところです。特に(ローマの信徒への手紙8章)15節で「アッバ、父よ」という言葉が出てきますが、この「アッバ」は当時のユダヤ人の日常語で、「お父ちゃん」「パパ」という子どもが父親に対して呼びかける言葉とのことです。心からの信頼と愛とを持って、お父さんのふところへと飛び込んでいく、そのようなストレートで飾らない表現です。
もしもそれが、「お父さん、今、お時間は大丈夫でしょうか。」と尋ねたとしたら不健全ですし、気持ち悪いものです。子どもというのは、こちらがいかに大変であっても、忙しくても全くお構いなしに「お父ちゃん」「パパ」とか言い寄ってくるのが普通なのですね。
そのようにこの「アッバ、父よ」というのは、神の子どもである私たちが、父なる神様に向かって心からの愛と信頼とをもって接する接し方でもあります。しかしそのようなほほえましい場面だけでなく、もっと緊迫した時、理不尽な取り扱いを受けた時、死を前にした時には、私たちは叫ばざるを得ませんし、いやもう祈れない時だって起こってきます。
そのような事はいけないのか、祈らないと神様は全く聞いてくださらないのか、そんなことは決してありません。そのような場合でも父なる神様は、イエス様の十字架の償いの故に、私たちの祈りに耳を傾けて下さいますし、言葉にならないうめきでさえも聖霊なる神様はちゃんと聞き取って、神様に届けてくださるのです。だからいついかなる時も、どんな場合も私たちは祈ることが出来ますし、祈って良いのだよ、と私たちを励まし、祈りの世界へと招いてくださっておられます。
NHK教育番組に、「ハートネットTV」という障がい者向けの、また障がい者を紹介した番組がありますが、ある時「片腕のギターリスト」というタイトルがあり、興味深く観ました。
それは、湯上輝彦さんという方で、元プロギターリスト、メジャーデビューも果されたのですが、6年前に脳梗塞を起こし半身不随になられました。けれどももう一度ギターを弾きたいという思いを諦め切れず、辛いリハビリと血のにじむような努力をされて片手だけで弦をたたきつけるようにして演奏される独自のスタイルを獲得されたのです。その演奏の姿や独自の音が、一般の人だけでなく、病やリハビリに苦しむ患者さんの心を励まし、中には涙ぐんでいる人達の光景も映し出されていました。
彼のモットーは、「自分で作った心の壁は自分でこわせる、どうしても出来ないことは進んで支えてもらう」とのことです。もちろん誰もがそのようにしていけるわけではありませんが、案外、壁を作っているのは、相手でも、社会でもなくて自分自身のことの方が多いのではないかと思います。愛する神様が、私たちを新しい世界、新たなる恵みへと招いてくださっておられる、その神様のみ手に委ねていかれませんか。私たちの小さな祈りの手を必ずキリストは、しっかりつかみ、握りしめてくださいます。