聖書を開こう 2016年7月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 乳飲み子から成長して霊的な家に(1ペトロ2:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 生き物の特徴の一つは、成長することです。目に見えてわかる成長は、大きさです。背丈が伸びたり、体重が増えると、成長しているのが一目瞭然です。人間の場合には目に見えない部分の成長もあります。ものの考え方や他人に対する思いやりなどは、目には見えませんが、それらがあるとき、言葉や行動となって表れるときに、成長を知ることができます。いずれにしても、そういう成長があるのが生き物の特徴です。

 同じようにキリストを信じるクリスチャンにも成長があります。新約聖書を読んでいると、キリスト者としての成長に触れる記事が少なくありません。キリストを救い主として信じることが最終的なゴールではなくて、そこから成長することが始まって、やがて終末の時を迎えるまで、成長の道を進む姿が描かれます。

 この手紙には、新たに生まれさせられ、生き生きとした希望を与えられたクリスチャンの姿が描かれていましたが(1ペトロ1:3)、その新たに生まれたクリスチャンが、そのまま赤ん坊の姿で居続けることは、この手紙がクリスチャンに期待していることではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

 ふただび「だから」という言葉で段落が始まります。1章の13節でもそうでしたが、ここでも、今まで述べてきた事柄から、何がしかの結論を引き出そうとしているところです。

 「だから」が述べる結論の中心点は、いうまでもなく「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」という勧めの言葉です。

 では、どんなことからこの結論へと至ったのでしょうか。1章の終わりには、「あなたがたは、…神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)という言葉がありました。新たに生まれた赤ん坊というイメージがそこにはあります。ですから、赤ん坊であるなら、成長のために乳を飲むのは当然のことです。生まれた赤ちゃんが乳を飲まなければそれこそ心配です。

 もっとも、健康な赤ちゃんであれば、命じるまでもなく、自分から母乳を求めて吸いつくはずです。健康な生まれたてのクリスチャンもそうでありたいと願うものです。

 ところで、ペトロはここで、「混じりけのない霊の乳」が具体的に何を指すのかを明らかにしていません。霊的な糧という意味で、旧約聖書の時代から、神の言葉は、神の民を養う霊的な食べ物と考えられてきました。有名な聖書の言葉を挙げるとすれば、申命記8章3節を上げることができます。

 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」

 ペトロの念頭にある「混じりけのない霊の乳」というのも、神の言葉と考えてよいでしょう。ペトロは直前の段落で、この手紙の受取人たちが「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」ことを思い出させていますが、その神の言葉に養われて成長することを望んでいます。

 もっとも、新改訳聖書では「みことばの乳」と訳されていますから、最初から「神の言葉の乳」という理解です。少し横道にそれますが、この訳の違いは「ロギコス」という単語の翻訳の問題です。この言葉はロゴス(言葉)という単語に由来する言葉ですが、「理にかなった」という意味や、「霊的な」という意味にも使われる単語です。新改訳聖書は語源にさかのぼって「ことばの」という意味にとらえ、新共同訳聖書は派生的な用法に従って「霊的な」という意味にとらえたのでしょう。いずれにしても、ここで考えられている「乳」とは、神の御言葉以外の何物でもないでしょう。

 さて、話を元に戻して、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と勧める前に、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」という言葉が置かれています。この部分を飛ばして、「だから、…生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と繋げてもよさそうです。

 けれども、そこへ直接繋げないで、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」と前置きをしているのには意味があります。

 直前の段落でペトロが命じていたことは、兄弟愛でした。ペトロは「清い心で深く愛し合いなさい」と勧めます。

 この兄弟愛の勧めとの繋がりに気がつくならば、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」という言葉が前に置かれている理由が理解できると思います。

 ここに挙げられている五つの事柄、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」は、どれも相手が絡んでいるという意味で兄弟愛に反するものばかりです。そういうものを捨て去ってこそ、いただいた霊の乳によって健全な成長をなすことができるのです。

 いうまでもなく、乳を慕い求めるようにと勧める目的は、2節に記されているとおり、「これを飲んで成長し、救われるようになるためです」。後半の「救われるためです」という言葉は、誤解を生むかもしれません。ここでいいたいことは、まだ救われていないので、霊の乳を飲みなさいといういことではありません。むしろ「救いの完成へと至るために」と意訳した方がわかりやすいかもしれません。新約聖書の中に常に「すでに」と「まだ」との間の緊張関係があります。キリストにあってすでに救いの業はわたしたちのうちに始まっています。しかし、完全な救いの完成という意味では、まだ時を待たなければなりません。

 さて、3節から5節は少し入り組んだ複雑な文ですが、中心点は、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」という勧めの言葉です。比ゆ的な表現ですが、ペトロが考えている成長とは、クリスチャン一人一人が神殿を構成する石となって、キリストをかなめ石とした神の神殿として建て上げられていくことです。神殿は神を礼拝する場所です。わたしたち自身が神を畏れ敬い、神を礼拝する生き方を送る共同体となることこそ、目指すべき成長なのです。

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