聖書を開こう 2016年6月2日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 試練によって練り上げられる信仰(1ペトロ1:6-9)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教に入信したばかりの頃は、だれでも喜びに満ちています。「信仰の喜び」という言葉がまさにぴったりです。しかし、その喜びはいつまでも続くものではありません。それは信仰の喜びに限らず、喜びという感情が、もともと長くは続かないものだからです。どんなに嬉しい気持ちであっても、やがては衰退していきます。

 特に信仰の喜びに関して言えば、その喜びが消えていく原因が少なくとも二つあります。

 一つは、喜びと感じていたものが、日常の風景になってしまうことです。たとえば、神から励まされたり、慰められたという経験に喜びを感じていたとします。ところが、それがいつしか当然のことになって、意識されなくなると、今まで以上の事が起こらない限り、それを喜びと思えなくなってしまいます。

 もう一つの原因は、困難にぶつかることによってです。喜びよりも苦労の方が大きくなると、喜んでいることが難しくなります。もはや信じる者にとっての困難や苦しみの意味を考る余裕さえなくなるとき、喜ぶ気持が失われていきます。

 しかし、それだからこそ、聖書は喜びについて様々なところで語っています。主イエス・キリストご自身、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたたの喜びが満たされるためである」とお語りになって、弟子たちを励ましています(ヨハネ15:11)。

 きょうこれから取り上げようとしている個所にも、信仰者の喜びが語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章6節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

 前回の学びでは、ほめたたえられるべき神が、どのようなことをしてくださったのか、そのことを学びました。それは、神がわたしたち信じる者を、生きた希望へ向かって再び生まれさせてくださったこと、また、朽ちることのない天の財産を受け継ぐ者へと生み出してくださったことです。

 さらには、そのように新たに生まれたわたしたちを、神がその御力によって、終わりのときまで守ってくださっているということでした。

 そのことを受けて、きょうの個所がはじまります。

 「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」(1ペトロ1:6)

 神がわたしたちに新しい命を与えてくださったばかりか、世の終わりの時に完成される救いへと確実に守り導いてくださるのですから、心からの喜びに満たされるのは当然の結果です。もちろん、このことは信仰によってしか受け取ることのできない恵みですから、信仰が揺らぐとき、喜びも揺らいでしまいます。

 ペトロはそのことを見越して、こう記します。

 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」(1ペトロ1:6)

 ペトロがここで念頭においている「いろいろな試練」というのが、具体的に何を指すのかは明らかではありません。これから襲ってくるローマ帝国の大迫害の時代というよりは、どの時代にもどの場所にも共通して起こり得る、信仰者として遭遇する様々な試練ということでしょう。そのような試練は、キリスト教会が誕生したペンテコステの日から、しばしば教会に起こってきました。いえ、すでに旧約聖書の時代から、神を信じる者たちにしばしば試練は襲い掛かってくるものでした。

 この手紙の中にも後ほど出てきますが、そのような試練は決して予想外のものではありません。

 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(1ペトロ4:12)

 神の恵みを受け取る信仰を、外から揺るがす誘因は、生涯にわたって取り去られることはないと思っていた方が安全です。

 ただし、このことはクリスチャン生活には安らぐ時がないということではありません。外から信仰を揺るがそうとどんなに試練が襲ってきたとしても、心の中の平安までもが揺るがされるとは限らないからです。むしろ、いろいろな試練に悩まなければならないということを予め告げられているからこそ、慌てふためく必要はありません。

 そればかりではありません。ここには試練の積極的な意味が語られています。それは試練によって信仰が練り上げられるということです。それは金属が火によって精錬されて、純度を高めていくのに似ています。その中でも精錬された純度の高い金には高い価値があります。

 しかし、ペトロはその精錬された金をとりあげながら、試練によって練り上げられた、金にもまさる、信仰について語っています。

 試練は避けて通りたいと思うのが、人の思いかもしれません。しかし、信仰の試練を通過することで、いっそう信仰が純度を高められ、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすようになるのです。

 キリストが現れるとき、というのは世の終わりの時の話です。しかし、ペトロは、目に見えないキリストを信仰によって見、信仰によって心から愛し、喜びで満たされている信仰者の現実を指摘しています。そして、このことこそが、信仰の実りとして魂の救いを受けていることを証しているのです。そのことを思い出すことが大切です。

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