いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。ゆとりがある時は、心も穏やかで、また経済力も伴えば、わたしたちは当座の不安も少なくなるでしょう。友人たちと食事をしても、気前よくみんなの分を支払ったり、家族サービスにもお金を遣うかもしれません。
しかし、わたしたちの人生はそのような時ばかりではありません。
裕福な友人を妬んだり、見栄を張って無理をしたり、そして外で不愉快な思いをしたときには、妻や子どもに当たり散らすことも無いわけではありません。そんな時には、我ながら自分の小ささ、貧しさに自己嫌悪に陥ります。何て自分は心狭く、貧しい存在なんだろうかと悲しくなるかも知れません。
しかしながらこの朝、主イエスはわたしたちに、「心の貧しい者は、幸いである」と語りかけてくださいます。そんな貧しく、心も狭い者が、なぜ幸いなのでしょうか。心豊かな者が幸いであり、実際に経済力のある者の方が幸いだと思うでしょう。けれども、主イエスはそのように自らの貧しさに困惑し、苦しむ者こそ幸いだ、と言われます。
しかも、ここで語られている貧しさは、単に心に留まらず、実際に絶望的な貧困をも意味している、と言われています。家も財産も失い、難民のような状況かも知れません。心も肉体も貧しい状況です。
ですからその解決を、神に求める以外に道がありません。聖書が語る幸いは、神様との関係を回復することです。神様を知らなかった者が、神様により頼む。そこに幸いが始まります。
ですから主イエスは続けて、「天の国はその人たちのものである」と約束をしてくださいました。心貧しい者は、神様を求めるしかありません。そして神様を求める者を、神様は求めておられ、幸いを与えてくださいます。