ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教のお葬式のときに朗読される聖書の個所の一つに黙示録の14章10節の御言葉があります。
「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
労苦を解かれる人生の終わり方、安らぎを得る最後、その行ないが報われる生涯というものは、何と幸いなことだろうかと、この聖書の言葉が朗読されるたびに思います。
しかし、そういう平安に満ちた人生の終わり方に対して、同じヨハネの黙示録には、こんな言葉も記されています。
「幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
黙示録20章12節の言葉です。
先ほどの報われる人生と、こちらの裁かれる人生とでは、一生涯を終えた後に待っているものが、あまりにも違いすぎるように感じます。自分自身に与えられた罪状書きがいつまでもついて回るとしたら、本当にわたしたちの人生は終わりにいたっても平安を得ることはできません。
さて、今日学ぼうとしている個所には、主イエス・キリストが十字架につけられたときに掲げられた罪状書きについてのくだりがでてきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章17〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエス・キリストが十字架につけられた場所、その場所はヘブル語で「されこうべ」「どくろ」の場所と呼ばれていました。ヘブライ語でゴルゴタ、ラテン語ではカルヴァリアと呼ばれる場所です。どくろと聞くと何だか不気味な感じのする場所です。いかにも十字架刑を執行するにはふさわしいような感じがします。どうして、その場所がそのようなおどろおどろしい名前で呼ばれるようになったのか。地形がどくろのような形をしていたのか、それとも、ほんとうにどくろがごろごろ転がっていたのか、地名の由来ははっきりとはわかりません。地名の由来どころか、一体それがどこにあったのか、今となってはその正確な場所さえ特定することはできません。ただ、それはエルサレムの都の中ではなく、都からそう遠くはない場所での出来事であったと思われます。主イエス・キリストは、神の民が集まる場所から遠ざけられた場所で、十字架にお掛りになったのです。この福音書の一番最初のところに、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とヨハネは1章の11節で記しています。自分たちの救い主イエス・キリストを都の外へ連れ出すこの十字架刑で、人々は完全にキリストを拒んでしまいました。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。