聖書を開こう 2015年9月10日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 十字架の上の王・世界の救い主(ヨハネ19:17-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教のお葬式のときに朗読される聖書の個所の一つに黙示録の14章10節の御言葉があります。

 「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 労苦を解かれる人生の終わり方、安らぎを得る最後、その行ないが報われる生涯というものは、何と幸いなことだろうかと、この聖書の言葉が朗読されるたびに思います。
 しかし、そういう平安に満ちた人生の終わり方に対して、同じヨハネの黙示録には、こんな言葉も記されています。

 「幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
 黙示録20章12節の言葉です。

 先ほどの報われる人生と、こちらの裁かれる人生とでは、一生涯を終えた後に待っているものが、あまりにも違いすぎるように感じます。自分自身に与えられた罪状書きがいつまでもついて回るとしたら、本当にわたしたちの人生は終わりにいたっても平安を得ることはできません。

 さて、今日学ぼうとしている個所には、主イエス・キリストが十字架につけられたときに掲げられた罪状書きについてのくだりがでてきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章17〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 イエス・キリストが十字架につけられた場所、その場所はヘブル語で「されこうべ」「どくろ」の場所と呼ばれていました。ヘブライ語でゴルゴタ、ラテン語ではカルヴァリアと呼ばれる場所です。どくろと聞くと何だか不気味な感じのする場所です。いかにも十字架刑を執行するにはふさわしいような感じがします。どうして、その場所がそのようなおどろおどろしい名前で呼ばれるようになったのか。地形がどくろのような形をしていたのか、それとも、ほんとうにどくろがごろごろ転がっていたのか、地名の由来ははっきりとはわかりません。地名の由来どころか、一体それがどこにあったのか、今となってはその正確な場所さえ特定することはできません。ただ、それはエルサレムの都の中ではなく、都からそう遠くはない場所での出来事であったと思われます。主イエス・キリストは、神の民が集まる場所から遠ざけられた場所で、十字架にお掛りになったのです。この福音書の一番最初のところに、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とヨハネは1章の11節で記しています。自分たちの救い主イエス・キリストを都の外へ連れ出すこの十字架刑で、人々は完全にキリストを拒んでしまいました。

 さて、ゴルゴタにある刑場までの道のりを、イエス・キリストは十字架を背負って歩かれました。十字架といっても、実際に背負って運んだのは、十字架の横木です。縦木の方は刑場の方にすでに立ててあって、刑場では運んできた横木に死刑囚の手首を打ちつけて、それをロープでつるし上げて縦木に固定したそうです。

 徹夜の審問を受けた後、しかも、照りつける暑い日差しの中を十字架を背負って沿道を歩かなければならなかったのですから、それだけでも、とても辛い道のりであったと思われます。

 このとき十字架刑に処せられたのは、イエス・キリストお一人ではなく、他に二人の犯罪人も同じように十字架にかけられたとあります。しかも、イエスを真中に、他の二人はその両脇にかけられたとヨハネ福音書は記します。誰が見ても、真中に立つイエス・キリストこそ、罪人の中の罪人という印象を受けたことでしょう。この光景こそ預言者イザヤが「苦難の僕」の歌に歌った救い主の姿を思い出させます。

 「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ53章12節)

 ところで、イエス・キリストの頭上には十字架刑に処せられた理由を記した、罪状書きが掲げられていました。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記されていました。表向きの罪状はローマ皇帝に反逆したユダヤ人の王として、処刑されたからです。

 けれども、ヨハネによる福音書が記す裁判の記事では、イエス・キリストはこの世のどこかの国の王ではありませんでした。イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「わたしの国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう、しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)

 イエス・キリストの頭の上に掲げられた罪状書きは、イエスの罪を広く知らしめるために三つの国の言葉で記されました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれた罪状書きです。しかし、この福音書の読者にとって、それは、ユダヤ人の王、ユダヤ人の救い主にとどまらず、あらゆる国語を話す人々の王であり、救い主であることを物語っているように受け取ることができます。なぜなら、ヨハネによる福音書が提示する救い主は、世の救い主、世界の救い主であったからです(4:42)。それは世界の罪を取り除く神の小羊として、この福音書の最初から紹介されている通りです(ヨハネ1:29)。

 人々の目には自称ユダヤ人の王である一人の男としか映らないのでしょう。しかし、ヨハネによる福音書にとっては、このお方こそ、世界を救う王にほかならないのです。

 世界を救う王が十字架の上にかけられている。これは、最も滑稽な光景かもしれません。けれども、この十字架の上にかけられた王こそが、わたしたちの上に並びたてられている罪状書きをすべて取り除き、永遠の命をお与えくださる救い主にほかなりません。あなたもぜひ、この十字架に掲げられた王、イエス・キリストを見上げてください。

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