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聖書を開こう 2015年3月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 今はできない(ヨハネ13:36-38)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が洗礼を受けたのは17歳の時でした。16歳春に初めて教会へ行き、その年のクリスマスに洗礼を受けましたから、比較的短期間のうちにクリスチャンになりました。クリスチャンになったと言っても、今から考えてみれば、まだまだなんにも知らない生まれたばかりの赤ちゃんのようなものでした。

 洗礼を受けるための準備期間にたくさんのことを学びましたから、知識としてはいろんな事を知っていました。しかし、自分のほんとうの弱さや、罪深さについて、自分が神をどれほど必要としているかといったことなどは、後になればなるほどひしひしと感じるようになりました。

 クリスチャンとなるということは、そういうことではないかと思います。最初から百点満点のクリスチャンになるのではなく、色々なことにぶつかって挫折しながら、神の恵みや忍耐深さをその時々に学ばされて、成長して行くのではないでしょうか。

 変な言い方かもしれませんが、自分の弱さの中に、神の恵みを見出すことの出来る人こそ、成長するクリスチャンであるような気がします。

 さて、今日の聖書の個所には、弟子のペトロが挫折するであろう、と言う予告がイエス・キリストの口から出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章36節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 前回は、最後の晩餐の席上で、イエス・キリストが弟子たちにお与えになった、新しい掟について学びました。その新しい掟をお与えになる前に、イエス・キリストは不思議なことをおっしゃいました。

 「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」(ヨハネ13:33)

 この言葉の後で、キリストは「互いに愛し合いなさい」と語る新しい掟をお与えになりました。キリストの行くところへ今は共に行くことが出来ない弟子たちに、この世に残るようにと定められている弟子たちに、キリストの愛のうちにとどまって、互いに愛しあうことをお求めになったのです。

 しかし、ペトロには、新しい掟のことよりも、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とおっしゃったイエス・キリストのお言葉の方が気になったようです。

 「主よ、どこへ行かれるのですか。」とペトロは問いかけます。

 ペトロには、キリストがお命じになる新しい掟の言葉は、少しも耳に留まりません。ペトロにとっての関心事は、主イエス・キリストがどこへ行こうとされているかと言うことでした。いえ、それ以上に、どうして自分がついて行くことが出来ないのか、ということを、ペトロは知りたかったのでしょう。ペトロにとって、「どこへ」という問いに対するキリストの答えは、どうでもよかったかも知れません。たとえその答えが火の中であっても水の中であったとしても、ペトロの覚悟は決まっていたからです。

 そのことを見越してか、主イエス・キリストは、ペトロの「どこへ」という質問に正面から答えようとはしません。

 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

 本来なら、「今ついて来ることはできない」という現実を、ペトロはしっかりと受け止めなければなりませんでした。そのことは、「時」の問題と深くかかわっているからです。「どこへ」という場所の問題よりも、まずペトロが知らなければならなかったことは、父なる神がお定めになった「時」の問題です。「今」なすべきことを飛び越えて、何か違うことが「出来る」と思うところに人間の思いあがりがあります。

 しかし、ペトロはなおもイエス・キリストのお言葉の意味を理解することができず、尋ねます。

 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

 命を捨ててでもイエス・キリストに従おうとするペトロの気持ちにはウソ偽りはなかったと思います。心からそう思っていたことでしょう。けれども、ペトロには自分の置かれている状況が見えていませんでした。そればかりか、自分のために命をささげようとしていらっしゃるイエス・キリストが見えていなかったのです。キリストを差し置いて、大胆にも自分こそが命をささげると言ってのけてしまいます。

 ペトロはイエス・キリストを見ているようで、実は自分自身のことにしか関心がありませんでした。羊のために命を捨てるとおっしゃったイエス・キリストのお言葉が、ペトロにはほとんど意味のある言葉として残っていないようです。

 また、ペトロには他の弟子たちへの関心もありません。なぜなら、互いに愛し合うというキリストがお与えになった新しい掟に、心も留めようとしていないからです。

 そういうペトロにイエス・キリストは厳しい言葉を投げかけられます。

 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 この言葉はペトロにとって厳しい言葉に聞えたでしょう。けれども、この言葉をおっしゃったイエス・キリストには、もっと深い苦しみがありました。

 わたしがキリストのためではなく、キリストがこのわたしのために命を捨ててくださったということを心から受け入れるとき、はじめてキリストについて行くことができるのではないでしょうか。イエス・キリストのお言葉の意味がわからなかったペトロは、キリストのおっしゃった通り、後に三度キリストを否んでしまいます。けれども、キリストがおっしゃった「後でついて来ることになる」という言葉も実現しました。こうした事柄の中に、罪人をいつくしむ神の忍耐と恵み深さが表れています。

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