聖書を開こう 2015年3月5日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 仕えるイエスに倣う(ヨハネ13:12-17)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしは三人兄弟の末っ子として、いつも姉や兄から可愛がられてきました。姉も兄も歳がずっと離れていましたので、なんでもしてもらうと言うことが多かったように思います。そのため、誰かのために何かをするという訓練は、まったく受けないままに小中学校時代を送ってきたように思います。どちらかと言うと、自分を中心に世の中が回っているような世界に生きていました。

 中学を卒業してから教会へ初めて行ったときに、教会に集う人たちの振る舞いを見て、誰かのために生きるということを印象深く学んだように思います。特に教会では、まるで実の家族のように他の人たちのことを親身になって心配し、助け合っていましたから、その様子を見て、余計印象に残ったのだと思います。キリストの愛に動かされて大きな働きをなした人たちの働きは、伝記などの読み物で知ることができますが、教会にはキリストの愛に動かされて働く無名の人たちがたくさんいるということをいつも思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」

 今日の個所には、最後の晩餐での席上で、弟子たちの足を洗い終えたイエス・キリストの言葉が記されています。
 客人の足を洗うのは本来は僕の役目ですが、そのようなことを主であるイエスがわざわざなさったのには、理由がありました。その理由の一つは、先週学んだペトロとイエス・キリストとのやり取りの中で既に明らかにされました。つまり、この足を洗うということの中には、イエス・キリストがもたらす救いの恵みに、弟子たちがすでにあずかっている、という象徴的な意味が込められていたのです。

 今日学ぶ個所では、もう一つの理由が明らかにされます。イエス・キリストはおっしゃいました。

 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

 さて、この言葉を文字通りに受け取れば、弟子たちもこれからは食事の席に人を招いたならば、自分でその招いたお客さんの足を洗ってあげなさい、ということになるでしょう。もちろん主イエスがおっしゃりたかったのは、文字通り足を互いに洗いあうということではありません。

 では、そのようなご自分の謙遜さに見習いなさいという、謙遜の勧めなのでしょうか。確かに、主であり、先生であるイエス・キリストが謙遜な姿を示されたのですから、それを模範として生きることは弟子たちに当然求められていることでしょう。

 しかし、イエス・キリストがほんとうにお求めになっていることは、ただ、謙遜に生きなさいという、それだけのことではありません。

 確かに新約聖書の教えには、謙遜であるということが、クリスチャンの徳として求められています。ギリシャ哲学では「謙遜」ということ、…ギリシャ語ではタペイノフロスネーといますが…、それは徳ではなく、むしろ卑しいことと受け取られていたそうです。そう思うと、謙遜に生きるということは、当時のギリシャ哲学の浸透した世界にあっては、特別にクリスチャンらしい生き方であったということができます。

 けれども、問題はクリスチャンの謙遜さが、何に根ざしているのかということです。

 イエス・キリストが弟子たちの足をお洗いになったのは、キリストの十字架と復活に深く関係しています。イエス・キリストの謙遜さは、ご自分の命を捧げるほどに他の人々に仕える謙遜さです。それは、また他者を生かすための謙遜さでもあります。

 キリストが「仕える」ということについて、お話になったのには、二つの有名な場面があります。一つはマルコによる福音書の10章45節です。キリストはおっしゃいました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 ここには、ご自分の命を捧げて仕えるイエス・キリストの姿が鮮やかに描かれています。

 もう一つの個所は、ルカ福音書の22章26節です。

 弟子たちに対して、こう勧めています。

 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」

 実は、この勧めの言葉をお語りになったのは、まさに最後の晩餐でのことでした。そのときキリストは、裂かれたパンをご自分の体に見たて、赤いぶどう酒をご自分が流す血潮に見たてて、ご自分がこれからかかろうとしている十字架の意味を弟子たちにお示しになりました。

 つまり、主イエス・キリストが求めていらっしゃる謙遜さとは、このイエス・キリストの生き方のうちに示された深い愛といつも結びついているのです。

 人間は謙遜になろうと思っても中々なることができません。むしろ、思いあがった心がすぐに姿を現します。その思いあがった人間の心は、イエス・キリストご自身と触れ合うときに、はじめて身を砕いてへりくだり、他者のために生きることを学ぶようになるのです。

 足を洗ってくださったイエス・キリストのうちに、わたしたちをこよなく愛してくださる神の愛が現れています。そして、そのように愛されているわたしたちが、人に仕え、人を愛するようにと、イエスはわたしたちを促してくださっています。

 イエス・キリストは最後の晩餐の席で、弟子たちにこうお命じになりました。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

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