聖書を開こう 2015年2月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 弟子たちの足を洗うイエス(ヨハネ13:6-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネ福音書の特徴の一つに、イエス・キリストと人々が交わす会話がちぐはぐであることがしばしばあります。たとえば、3章のところに出てくるニコデモと主イエスとの会話の中で、イエス・キリストが「新たに生まれなければ」とおっしゃったのを、ニコデモが「もう一度母の体内に入って生まれる」と言う意味に誤解する場面が出てきます。あるいは、8章のところで、イエス・キリストが「わたしの行くところにあなたたちは来ることが出来ない」とおっしゃったのに対して、ユダヤ人たちは、イエスが自殺でもするつもりかもしれない、と反応したりします。

 今日取り上げようとしている場面にも、弟子のペトロがイエス・キリストのお言葉に対してちぐはぐな反応を示す場面が出てきます。

 確かに、こうしたちぐはぐで頓珍漢な反応をあからさまに書き記すのはヨハネ福音書の特徴ですが、しかし、それはただ単にヨハネ福音書の文学的な技巧とか創作ということではないと思います。実際、イエス・キリストのお言葉には、聞き手にとって意味のわかりにくい、戸惑うような発言が多かったのではないでしょうか。すべてが明らかになった今だからこそ、その当時の人々のちぐはぐな反応の仕方を面白おかしく感じるかもしれません。実際に自分がその場に居合わせたとしたら、きっとイエス・キリストのお言葉の真意を捉えることは難しかったでしょう。自分がキリスト教のことをよく知らなかった時のことを思い出してみると、ずいぶんおかしな誤解をしていたことを思い出しますから、当時の人たちもイエス・キリストのおっしゃることにどう反応してよいのか、戸惑うことが多かったのではないかと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章6節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 今日の場面は、十字架にかけられる前の晩、イエス・キリストが弟子たちと最後の食事をとった、いわゆる最後の晩餐の席上での出来事です。大先生であるはずのイエス・キリストが弟子たち一人一人の足を洗ったということがそこには記されています。客人たちの足を洗うのは、僕の役目ですから、イエス・キリストのそのような行動に、弟子たちは驚きと戸惑いを感じたに違いありません。ペトロの順番になったとき、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」とその驚きを表します。「あなたのようなお偉いお方が、この弟子に過ぎないわたしの足をお洗いになるのですか」、そうペトロは言いたかったのでしょう。

 このペトロの質問に対して、イエス・キリストはこうお答えになりました。

 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

 「あとで分かる」という言い方は、このヨハネ福音書の中では、いつもイエス・キリストの十字架や復活の出来事と関係しています。つまり、イエス・キリストの十字架と復活が起こった後で、はじめて悟ることが出来る事柄だと言うのです。
 わたしたち人間は今何でも分からなければ、意味のないことだと思ってしまいます。あるいは、今分かっていることだけで、すべてを判断してしまいます。しかし、神のなさることは、しばしば、後になってからでないと全体の意味を正しく悟ることができないものもあります。

 ここに記されていることは、もちろん、ヨハネ福音書が書かれたときには、その意味がはっきりとわかっていたはずです。そうであればこそ、深い感動を心に覚えながら、この出来事を読者たちに伝えようとしたに違いありません。

 では、後で分かるようになるという、イエス・キリストのこの行動の意味は一体何だったのでしょうか。

 「決して足を洗わないでください」というペトロの要求に対して、イエス・キリストは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃっていらっしゃいます。

 イエス・キリストが弟子たちの足を洗うと言うことは、ただ単に謙遜さの模範ということだけではありません。「わたしと何のかかわりもない」というのは、「受け継ぐべき分」を持つことが出来なくなると言う意味です。もし、イエス・キリストの洗い清めを受けないならば、神の国であずかる相続分を少しも持たなくなってしまうということです。そういう洗い清めが、イエス・キリストの取られた行動に象徴されています。この足を洗うと言う行為を拒むことは、とりもなおさず、イエス・キリストのお働き全体を拒むことを意味するほどに大きなことだと、イエス・キリストはおっしゃいます

 そこで、ペトロはすかさず、「主よ、足だけでなく、手も頭も」洗って欲しいと求めます。確かにイエス・キリストに洗っていただくことが、イエス・キリストとともに受け継ぐべき分を持つと言うことにつながるのだとすれば、足だけではなくて、手も頭も洗って欲しいということになります。

 しかし、ペトロはまだ誤解をしています。なぜなら、イエス・キリストのおっしゃりたかったことは、体のどの部分を洗うかではなく、この足を洗うイエス・キリストの行為を受け容れることが、全身の洗い清めを象徴していると言うことだからです。

 当時の習慣では食事に行く前に体全体を沐浴したそうです。招かれた場所についたとき足だけを洗うのは、逆にいえば、体全体がきれいだと言うことが前提なのです。だから、足だけを洗うことが体全体がきれいであることを証しているのです。そう言う当時の習慣に絡めながら、イエス・キリストはペトロにご自分のなさっていらっしゃることの意味を悟らせようとしているのです。

 イエス・キリストによって全身が清くされている、そう確認していただけるということは本当にすばらしいことです。このことを信じて、キリストの救いの御業を受けいれる者が、キリストとともに救いの恵みにあずかることができるのです。

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