聖書を開こう 2014年11月27日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主イエスと父なる神は一つ(ヨハネ10:31-42)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 主である神は唯一のお方である、という主張は、聖書に慣れ親しんできたユダヤ人にとって当然のことでした。そのユダヤ人たちのもとに遣わされた救い主イエス・キリストが、当のユダヤ人たちに受け入れられなかった理由の一つは、キリストがご自分を神の子と主張し、神とご自分を等しい者としたからでした。
 唯一の神を信じるユダヤ人にとって、それを受け止めることの方が難しいのはよくわかります。むしろ、キリスト教会が、ユダヤ教の唯一神教をうけつぎながら、同時にキリストの神性を信じていることの方が不思議なくらいです。
 しかし、そうであればこそ、キリスト教が人間の発想から生まれたものではないことを証しているように思います。なぜなら、メシアとして遣わされたイエスを人間とし、ユダヤ教の教えに留まったほうがずっと簡単で、ユダヤ人からの迫害も起こらなかったと思われるからです。
 けれども、それでもこの複雑な教え…イエスは人であり同時に神であるという教えをキリスト教が信じているのは、イエス・キリストご自身がそう主張されたからにほかなりません。その上、キリストがなしてくださった御業が、そのことを信じるに足るものであると証しているからです。
 きょうの個所はユダヤ人とイエス・キリストの対立であると同時に、このヨハネによる福音書が書かれた時代のキリスト教会がしばしば直面した問題でもありました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 10章31節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 先週はユダヤ人たちの祭り、神殿奉献記念祭での出来事を学びました。この祭りの由来が、民族の誇りと外国支配からの解放を思い起こさせるものでしたから、メシアであると噂されていたイエス・キリストに対する興味と関心が、この祭りの期間に、ユダヤの人々の間に起こったのは、当然の流れでした。
 けれども、すべてのユダヤ人がイエス・キリストに好意的であったわけではありませんでした。むしろ、イエス・キリストの教えと御業に反感をいだく者たちが大勢いました。

 キリストはそういう彼らを前に「わたしと父とは一つである」とおっしゃいましたので、ますますユダヤ人から反感を買うことになります。きょうの個所は、まさにそうしたユダヤ人たちの反感が爆発しそうになる場面です。

 彼らはとうとう石を取り上げてイエスを打ち殺そうとします。

 余談になりますが、この福音書にも書かれている通り、その当時のユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでした(ヨハネ18:31)。キリストを十字架にかけて殺してしまおうとした人々は、ローマ人の裁判を巧みに利用して、その企みを実行しようとしました。

 しかし、ここでは石で打ち殺そうと、短絡的にも石を取り上げるほどでしたから、人々が冷静さを失うほど激昂していた様子がよくわかります。

 それに対して、イエス・キリストの冷静な対応が印象的です。キリストはユダヤ人たちに、それが正しい行動であるのかを問いかけます。

 「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

 イエス・キリストが指摘する通り、ご自分のなさってきた数々の御業は、どれも恵みにあふれるものでした。どの一つをとっても人に危害を及ぼすようなものではありません。

 ただ、一つ、言うことができるとすれば、キリストが安息日に病人を癒したことは、ユダヤ人たちの律法の教えに背いているといえるかもしれません。この福音書の5章に記されているとおり、ベトザタ池のほとりにいた病人を安息日に癒したことで、イエス・キリストはユダヤ人から責められます。

 しかし、今回ユダヤ人たちが激昂した理由は、ほかのところにありました。彼ら自身の主張によれば、それは、イエスが人間であるにもかかわらず、自分を神としているからでした。確かに、聖書の教えによれば、創造者である神と、神によって造られた人間とは、同じであるはずはありません。その意味で、ユダヤ人たちが怒り心頭に発した理由は、理解できるものがあります。

 けれども、イエス・キリストはこのユダヤ人たちの思い違いを、二つの点から指摘します。

 一つは、彼らと同じ土俵にたった反論です。ユダヤ人たちは聖書の教えに従ってイエス・キリストを断罪しようとしましたが、キリストはその聖書を用いて、彼らの欺瞞を指摘します。というのは、聖書自身、詩編82編で律法を受けた人々を「神々」と呼んでいるからです。
 果たして、この聖書の引用がユダヤ人たちにとって納得いくものであったかどうかは疑問です。おそらく納得しなかったでしょう。

 そこでもうひとつ、もっと大切な点をキリストは指摘します。それは、キリストが行った業そのものによって判断するようにというものでした。

 この福音書の初めには、こう記されています。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:17-18)。キリスト教会が、イエスを主であり神の子であると確信したのは、このお方の中に父なる神の恵みと真理を見たからにほかなりません。

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