ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
主である神は唯一のお方である、という主張は、聖書に慣れ親しんできたユダヤ人にとって当然のことでした。そのユダヤ人たちのもとに遣わされた救い主イエス・キリストが、当のユダヤ人たちに受け入れられなかった理由の一つは、キリストがご自分を神の子と主張し、神とご自分を等しい者としたからでした。
唯一の神を信じるユダヤ人にとって、それを受け止めることの方が難しいのはよくわかります。むしろ、キリスト教会が、ユダヤ教の唯一神教をうけつぎながら、同時にキリストの神性を信じていることの方が不思議なくらいです。
しかし、そうであればこそ、キリスト教が人間の発想から生まれたものではないことを証しているように思います。なぜなら、メシアとして遣わされたイエスを人間とし、ユダヤ教の教えに留まったほうがずっと簡単で、ユダヤ人からの迫害も起こらなかったと思われるからです。
けれども、それでもこの複雑な教え…イエスは人であり同時に神であるという教えをキリスト教が信じているのは、イエス・キリストご自身がそう主張されたからにほかなりません。その上、キリストがなしてくださった御業が、そのことを信じるに足るものであると証しているからです。
きょうの個所はユダヤ人とイエス・キリストの対立であると同時に、このヨハネによる福音書が書かれた時代のキリスト教会がしばしば直面した問題でもありました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 10章31節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
先週はユダヤ人たちの祭り、神殿奉献記念祭での出来事を学びました。この祭りの由来が、民族の誇りと外国支配からの解放を思い起こさせるものでしたから、メシアであると噂されていたイエス・キリストに対する興味と関心が、この祭りの期間に、ユダヤの人々の間に起こったのは、当然の流れでした。ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。