聖書を開こう 2014年5月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: モーセが訴える(ヨハネ5:41-47)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 帰属意識は、人間にとって大切なものであると思います。しかし、その帰属意識が高じると、そのグループに属さない人たちに対して排他的な態度をとったり、軽蔑的な扱いをしたりしがちです。また、その裏返しで、実際以上に自分たちを高く自己評価していることに気がつかない弊害も起こります。
 これは残念ながらキリスト教会にも起こりうることです。大きな教会の会員は、自分が直接教会の進展に寄与したわけではないのに、自分の教会のことを誇らしげに語ったりします。勉強熱心な教会は、あまり学びに時間を割かない教会のことを、御言葉の真理に無頓着な教会であるように蔑んだりします。また伝道熱心な教会は、学んでばかりの教会のことを、その学びがいったいいつ生かされるのかと、揶揄します。もちろん、面と向かっては言わないまでも、帰属しているグループの中では、他者に対してそうした軽蔑的な思いを抱いても、すこしも疑問に感じることはありません。どのグループも神への愛から出た熱心さによってできあがった集団かもしれません。しかし、出来上がったグループの中に、神への愛がほんとうに息づいているのかというと、ときどき疑問を感じることがあります。

 きょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストは、ご自分を受け入れようとしないユダヤ人たちに対して、「あなたたちの内には神への愛がない」と指摘しています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 5章41節〜47節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 今まで四回にわたってヨハネによる福音書5章を学んできました。その冒頭には、ベトザタ池のほとりにいた病気の男をイエス・キリストがお癒しになった奇跡が記されていました。しかし、ユダヤ人たちの反応は、この奇跡に対する驚きでもなければ、病気が癒された人に対する喜びでもありませんでした。
 イエス・キリストが安息日に病人を癒して安息日の掟を守らなかったこと、また、神をご自分の父とお呼びになったそのことを問題視して、イエス・キリストを殺そうとさえ企みます。

 5章の後半には、このようなユダヤ人に対して、ご自分の立場を弁明し、ユダヤ人たちの問題を指摘したキリストの言葉が記されています。
 既に学んだように、御子イエス・キリストと父なる神との関係は、特別な関係であることがまず明らかにされています。御子イエス・キリストには、父から委ねられた権威があるからです。

 しかし、このようなことをキリストが自分で述べているだけのことであるなら、聞くに値しないと退けることもできるでしょう。けれども、キリストについて証ししているのは、何よりも、ユダヤ人たちが手にしている聖書そのものであることが指摘されます。聖書を読んでいながら、キリストをそこに見いださないとするならば、それは聖書そのものの読み方を間違えているのです。

 さて、きょう取り上げた個所は、ユダヤ人に対する一連の弁明と批判の最後の部分です。

 イエス・キリストは、ここではっきりと「人からの誉れは受けない」とおっしゃいます。すでに、イエス・キリストは、5章34節で、「人間による証しは受けない」とおっしゃっていますが、人間からの証言も、人間からの誉も、イエス・キリストには必要ないからです。

 ここで「誉れ」と訳されている言葉は、この福音書の中にしばしば登場する「栄光]と訳されている言葉と同じ言葉です。この福音書の17章によれば、イエス・キリストに栄光をお与えになるのは、父なる神ご自身です(ヨハネ17:1-5)。その栄光と比べるならば、人がキリストに対して与える栄誉など、比べ物にもなりません。

 イエス・キリストは、ご自分が人からの誉れは受けないことをおっしゃった後で、「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」とおっしゃいます。

 ユダヤ人たちは、イエス・キリストのほんとうの姿を知りもしませんし、知ろうともしません。そうであれば、なおのこと、彼らから栄誉が与えられることなど期待もできません。しかし、同じようにキリストの側もユダヤ人たちのことを知らないというのではありません。むしろ、キリストは彼らのことをよくご存知です。しかも彼らのうちには神への愛がないということを、キリストはよくご存じなのです。

 彼らのうちに愛がないことは、ベトザタ池で癒された男に対する態度から分かります。隣人を愛せない人に、どうして神を愛することができるでしょう。
 しかし、そのことを別にしたとしても、神から遣わされたキリストを受け入れないことが、神への愛がないことの決定的な証拠です。もちろん、彼らは、イエス・キリストが神から遣わされたお方であるかどうか、そのこと自体が疑問だと主張するでしょう。

 けれども、イエス・キリストが神から遣わされたお方であることが分からないのは、決してキリストの側に問題があるからではありません。彼らが自分たち同士では相手からの誉れを受け入れながら、神からの誉れを受けようとしないことの中に、そもそもの問題があるのです。

 彼らのそのような態度がもたらす結果は、イエス・キリストが指摘するまでもありません。何よりも彼らが大切にしているモーセ自身が、彼らの誤りを証言しているからです。

 モーセの指し示してきたことは、イエス・キリストと矛盾するものでは決してありません。むしろ、モーセの指し示して来たことを正しく読めば、キリストへと導かれていくのです。

 このユダヤ人たちの態度は決して他人事ではありません。神の言葉である聖書に聞こうとしないならば、誰も神がお遣わしになったキリストと出会うことはできないのです。

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