おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
人間、誰しも「幸せになりたい」と願っています。幸せになりたいと強く意識するか、ただ漠然とそう思っているかの違いはあるかもしれません。少なくとも、不幸になりたいと心から願う人は誰もいないでしょう。
ところが、誰もが願っていながら、幸せを実現するのは、そう簡単ではありません。そもそもみんなが幸せを達成できたら、「幸せになりたい」という願いそのものが、いつしか世の中から消えてなくなってしまうでしょう。しかし、実際にはいつまでたっても「幸せになりたい」という思いや願いが世の中から消え去ることはありません。幸せになるということが、どれほど簡単ではないかということが、その事実からしてもわかります。
しかし、また、自分が幸せだと思う人が、この世の中に全くいないというわけではありません。実際、今の生活に満足で幸せを感じている人が大勢いることもまた事実です。
そうなると、幸せとはいったい何なのだろう、ということになります。何か「これが幸せです」という実体があるのでしょうか。それとも、「幸せ」というのは心の問題なのでしょうか。
漠然と願っている幸せについて、それをもう少し別の言葉であらわすとしたら、どう言い換えることができるでしょうか。
「幸せである」ということは、「心配なく生きていける」という言葉で置き換えることができるとわたしは思います。もちろん、心配なく生きていけることが、幸せそのものとは言えないかもしれません。しかし、心配なく生きていけることは、幸せであることの基本条件であるようにわたしは思います。いつも食糧不足に悩まされていたのでは、幸せだと感じることはないでしょう。食べ物があっても、自分や家族が住む家が、いつも誰かに奪われていたのでは、これもまた幸せを感じることはできません。
この「心配なく生きていけること」の中には、いろいろなものが含まれます。病気をしない健康な体でいること、生活を支える仕事を自由に選ぶことができること、万が一失業してもある程度生活を維持する経済的な保証があること、孤独ではなく自分と一緒に暮らす伴侶や家族がいること、身の安全を脅かすような犯罪や戦争から守られていること、ある日突然、自分のプライバシーが公表されないこと、大切な情報をいつでも手に入れることができること。こうしたことはどれも「心配なく生きていけること」にとって欠かすことはできません。そして、今挙げたような事柄は、社会の制度や意識によってある程度確保できるようになっています。
しかし、それでもまだ幸福を追求する人間の思いは終わることがありません。というのは、一つには、人間は心配のない生活だけに満足するのではなく、より質の良い生活を求めているからです。心地よい音楽を聴いたり、楽しい映画を見たり、知らない土地を旅したり、そうしたことに幸せを感じるのは人間らしいことです。そしてそのことは、決して悪いことではないでしょう。
けれども、幸福を追求する人間の思いが終わらないもう一つの理由は少し厄介です。というのは、幸福の基本条件が「心配なく生きていけること」であるとすれば、未来を完全に予測できない人間にとって、「心配がない」などということはあり得ないことだからです。明日のことなど誰にもわからないのですから、心配し始めたらきりがないのがわたしたちです。
とすると、ほんとうに幸せになるためには、結局、何か支えとなるような信じるものが絶対に必要なのです。