いかがお過ごしでしょうか、国立聖書教会の野島邦夫です。
今週は旧約聖書詩編の、「個人の嘆きの詩編」のひとつ、第13編を学んでいます。
この作者は苦しみの中で、嘆き、訴え、助けを求めます。その相手は、嘆きを聞いてくださる方、苦しむわたしを助け出す力のある方だと知っています。「主よ」、「わたしの神よ」という親しく呼びかける言葉が、それを端的に表しています。ここにすでに希望があります。
けれども、嘆きと求めに続いて口にされる言葉はそれ以上のものです。読みましょう。
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り、
主に向かって歌います、
「主はわたしに報いてくださった」と。
もう助け出された、という言葉です。この部分は後で付け加えられたのではありません。これが信仰者の現実です。主はわたしの訴えを聞いてくださると信じて祈る人は、「祈りは聞かれた」という確信を必ず得ることができます。これが希望の源です。しかし、その確信が強まって行くと、「必ず救われるはずだ」という思いに留まらず、ついには「既に救われた」という言葉が口から出ます。まだ現実の救いは体験していないにも拘らず。これは「こうなってほしい」という主観的な思いが昂じた幻想ではありません。信仰者の現実です。そのとき、神は既に独り子をあなたの救いのために十字架につけられた、ということがはっきりみえています。