メッセージ: 主の恵みの手に委ねて(使徒14:21-28)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
幕末の頃、日本のいくつかの港が諸外国に開かれて、まだ禁教だったキリスト教を伝えようと多くの宣教師たちが日本にやってきました。それらの宣教師たちの中で、志半ばにして異国の地日本で命を落とした宣教師たちもいますし、一生涯を日本伝道に捧げて最後まで日本の地に踏みとどまった宣教師もいます。それらの宣教師たちのお墓は今日、横浜の外人墓地などで見ることができます。しかしまた、一定の期間、日本での宣教活動を続けた後、帰国していった宣教師たちも数多くいます。
日本人的な感覚から言うと、骨を埋める覚悟で来日し、文字通り日本で骨を埋めた宣教師の方が、宣教師としての気概にあふれているような評価を受けるかもしれません。しかし、期間を定めて働き、生れた教会の群れを他の人に委ねてその地を去る、ということも、最後まで留まるのと同じくらい信仰を求められる大変なことです。
パウロたちの宣教旅行も、行ったきり骨を埋めるまでその地にとどまる、という宣教の仕方ではありませんでした。きょうは、遣わされた場所から戻ってくるパウロたちの姿から、ご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 14章21節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
前回取り上げた個所では、リストラの町でまったくの異邦人たちにキリスト教の教えを伝えた記事を取り上げました。しかし、リストラの町でもユダヤ人たちの妨害にあい、パウロは石を投げつけられて危うく命を落としそうになりました。
パウロたちはリストラからさらに南東へと向かい、デルベの町に到着します。ここからさらに南東へ進めば、パウロの生まれ育ったタルソスに、さらに南東へ行けば、出発地点のアンティオキアに戻ることができます。しかし、パウロたちはデルベを第一回宣教旅行の最後の宣教地として、ここでの宣教活動を終えた後は、来た道を戻っていきます。
ここで、三つのことが注目に値します。一つはデルベの町にパウロたちは長年腰を据えなかったということです。ピシディアのアンティオキアでも、イコニオンでも、そして先週取り上げたリストラでも、ユダヤ人たちの妨害で町を出なければならなかったという事情があったのと比べると、デルベではそうした妨害の報告がありません。しかも、それどころか、この町での福音宣教によって多くの人が信者となったようです。もしそうであれば、もう少し長くその地にとどまってもよさそうですが、パウロたちは、敢えてそうしませんでした。
もちろん、使徒言行録の記録では、それぞれの町にどれくらいの期間滞在し、第一回の宣教旅行が全体としてどれくらいの期間にわたっていたのかははっきりとしませんが、少なくとも福音宣教に成功したと思われるデルベの町にさえ、そんなに長期にわたって滞在したような書きっぷりではありません。ただ「多くの人を弟子にして」という短いコメントがあるだけです。
こうしてみると、パウロたちの宣教の働きは、一つのところで長期間にわたっておこなうというタイプのものではなかったようです。限られた一生涯の中で、より広範囲にわたって福音を告げ知らせたいという思いがあったのかもしれません。要するに、福音を携えて出て行く人の使命感によって、それぞれその働きかたも様々であって当然だということです。
しかし、より広範囲に福音を伝えたいと思っているならば、なぜ、さらに東へと足を進めないで、デルベを最後に、来た道を引き返してしまったのかは、解せないようにも感じられます。これが注目に値する第二の点です。
確かに、山道をこれ以上東に進むことは、季節によっては雪にはばまれるということがあったのかもしれません。しかし、そういう消極的な理由よりも、もっと積極的な理由でパウロはあえてもと来た道を引き返したように思われます。
それは、生れたばかりのキリストの弟子たちを励ますという積極的な理由です。実際パウロ自身も経験した通り、この地でイエスを主であると告白し、聖書が約束したキリストであると信じ続けることは、身の危険さえ伴うことです。せっかくキリストの弟子として生きようとする思いが与えられたとしても、迫害や苦しみのゆえに、信仰からそれてしまう、という弱さは誰にでも起こりうることです。パウロたちは信徒たちを励まして、信仰に踏みとどまるようにと力づける積極的な理由で来た道を戻りました。
パウロたちがもと来た道を戻っていったのは、弟子たちを励ますというためばかりではありませんでした。さらにパウロたちは、教会ごとに長老たちを任命するという仕組みを作るためでした。ここで任命された長老が、今日のキリスト教会の役員と同じであったかどうかは断定できませんが、少なくともパウロたちにとっては、信仰とはただ個人の信仰の問題ではありませんでした。信仰が教会という共同体の中ではぐくまれ、長老たちの見守りを必要とするという意識がパウロたちにははっきりとあったということです。もちろん、長老を立てるという習慣はユダヤ教からきているのかもしれませんが、キリスト教会もその伝統を受け継いでいるということです。
注目したい三つ目のことは、パウロたちがそれぞれの教会ごとに長老を任命したとき、「彼らをその信ずる主に任せた」という点です。パウロたちは自分たちの働きを通して立てられた長老を、決して自分たちの支配下に置こうとはしませんでした。立てられた長老たちを主の御手に委ねて、この地を後にしたのです。どんなに立派で影響力のある指導者であっても、命には限りがあります。いつかは責任を誰かに委ねなければならない時が来ます。責任を委ねる相手は、信頼の置ける人であることは言うまでもありませんが、しかし、パウロたちはその信頼のおける長老たち自身を、さらに信頼に足る主ご自身に委ねたのです。主であるキリストが、教会の最高の頭であり、監督者であり、羊飼いであることを心から信じて委ねることの大切さを教えられます。
ここで立てられた長老たちは、後の教会の組織では、もっと正式な役職として確立されるようになりますが、しかし、彼ら自身を教会の頭である主に委ねるという姿勢は、今日の教会の意識にも大切なことと思われます。
パウロのこの姿勢は、後のエピソードの中にも表れています。三回目の宣教旅行の際にも、エフェソの長老たちを前に、パウロはこう述べました。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。…そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」(使徒言行録20:28,32)
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