立春が過ぎてもまだまだ寒いこの頃「♪はーるよこい はーやくこい♪」と歌った懐かしい日々をふと思い出すことがあります。名づけて「桃色の頃」どうして「ピンク」といわずに「桃色」なのでしょうね?でも先日「手もちの時間」(青木玉著・講談社)を何気なく開いて読んでいた時のこと「幼児期の楽しく嬉しかった日々は、うす桃いろの霞の中に…」と。「あらあらやっぱり桃色だ」私が直感した「桃色」に答えをもらったような気分になってニヤリ。
この桃色の頃の強烈な思い出の一つに、小さな私が居間の片隅でじっと耳をすまして聴きいる神主さんの声があります。神棚に向かい「汚れを払いたまえ清めたまえ」と奏でられる声。美しく響くその声は家中に満ちていき、やがて静かに終わりを告げるのですが、例えてみれば生のライブステージのようだったのでしょう。月に一度位、厳かなこの時間は、子どもが勝手なことをしたり邪魔してはいけないものという雰囲気で、ひたすらじっと聴いている時間でした。今は賑やかなものが溢れかえっていて子供たちの「オゴソカな場所や時」はなかなかみつかりませんね。
私は神棚を販売する商家に生まれましたから、家の中にあらゆる神様が満ち満ちていたのです。「イワシの頭も信心から」。日本人が八百万の神様やご先祖さまを拝む対象とすることに、少しも不自然さを感じなかった日々でした。神社、お寺どこでも神様やご先祖さまを拝まなければいけない、人間は死んだら神様のようになるのだ、私たちを守ってくれるのだ、それが正しい答えでした。
さて、ほほえみトーク、2012年のキーワードは「ONE」ですが、今日のお話の「オンリーワン」それは「唯一の真の神様」がいらっしゃるという現実を私が知った衝撃です。私は思春期に初めて66巻の聖書を手にしたのですが、その聖書全巻から語られる神様は「八百万」ではなく「唯一」でありました。宇宙と地球とその中に満ちるあらゆる命の創造者、つまり私自身の存在そのものの源でいらっしゃるとは…。自己嫌悪に襲われる思春期の嵐の中、苦しむ自分を、聖書によって新たに見つめなおすことになっていったのです。「そうだったのか…。神様に立ち返らない人間の罪。それで私はこう比較や競争をして苦しむのか、不安で死ぬことが怖いのか…でも絶望しなくていい、このままでいい。イエスさまの救いがあるのだから…。イエスさまは神様に立ち返らない私の罪の身代わりに十字架で命を捨ててくださった…それほどに私たちは神様に愛されている…」とまるで絡まった鎖がスルスルと解けていくように納得していったのです。自己中心から神中心の人生観へ、人生180度の転換でした。
最近、日本人の女性漫画家が旧約聖書物語を描いてくれたようですね。「私のほかに神はいない」と宣言される聖書の神様。他の神々を拝むことを「姦淫」と表現される熱情の神様。旧約聖書の迫力は本当に強烈なものでした。あまりに偉大な神様と私たち人間の小ささがわかり、読みながら畏れを抱きました。
今週土曜日は2月11日。キリスト教会は、この日を建国記念日ではなく「信教の自由を守る日」としています。悲惨な過去の歴史を繰り返してはならないと改革派教会は「教会と国家についての信仰の宣言」を出しています。「政教分離の原則」は大切ですね。私たちの「信じる自由」が奪われてはならない、また教会が国家に対してどのように関わっていけばよいのかを学べます。この宣言について知りたい方はお問い合わせくださいね。
さて、壮大なスケールでイエス・キリストによって救いの約束を成し遂げてくださった聖書の神様、「信じるとは神のみことばに信頼することである。」この確信は変わることなく今日も同じように心に与えられ続けています。私は今、日曜日に礼拝で説教を聴き続け、自分で祈り、家族と祈り、教会の友と祈りながら歩んでいます。そこから唯一の生ける真の神様を信じる道が開かれ、不思議なことに生きることだけでなく死ぬことの喜びも与えられているのです(フィリピ1:21)。
そして、パウロがアレオパゴスで語った聖書の言葉は今も私に語りかけてくれます。「…世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。…」(使徒17:16-34) くまだなみこ