ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の中で、皆が一致した信仰と生活の基準をもっているということはとても大切なことです。しかし、キリスト者の考えから生活まで、すべてが同じでなければならないというわけではありません。キリスト教信仰にとって重大な要素とそうでないものとがあることは誰もが知っていることだと思います。
たとえば、キリスト教会の中で、イエス・キリストが救い主であるかどうかについて、自由な考えを持つことができるか、と言えば、そうではありません。なぜなら、それはキリスト教信仰の根幹にかかわる問題だからです。
しかし、日曜日の礼拝に男子はネクタイを着用すべきかどうか、という問題は、キリスト教信仰の根幹にかかわる問題ではありません。そう言う問題についてまで、一致を求めるとしたら、それは行き過ぎた画一化と言わざるを得ません。しかし、自分の主義として、必ずネクタイを着用することを重んじる人がいたとしても、その人を排除することができないことも事実です。
今、挙げた例は極端な例なので、そんなことで教会の一致が妨げられてしまうということはないでしょう。しかし、似たような問題で教会内にぎすぎすとした対立が起こってしまう、ということはよくあることです。
きょう取り上げる個所には、こうした問題についてどう取り扱うべきか、その基本的な考え方が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 14章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
きょう取り上げる個所には、ある事柄を巡って対立する考えを持ったグループが登場します。野菜だけしか食べない菜食主義のグループと、何を食べても差し支えないと考えるグループです。また、特定の日を他の日よりも重んじるグループと、どの日も同じと考えるグループです。両者はそれぞれ同じグループなのかはどうかは、定かではありません。また、特定のこだわりをもった人たちが、どのような理由でそう言う主張を持つようになったのかは明らかにされていません。ただ、一つ言えることは、そうした特定の主張を持つ人たちが、その主張をキリスト教信仰の根幹とまでは強く主張していなかっただろうということです。もし、それをキリスト教信仰に不可欠なものと主張しているのであれば、パウロはガラテヤ書やコロサイ書で扱ったのと同じように、もっと違った仕方でこの問題を取り上げたことでしょう(ガラテヤ4:8-11、コロサイ2:16-23参照)。信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。