タイトル: 御霊によって歩むとは? 山形県 Y・Wさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「質問です。ガラテヤ書の中に『御霊によって歩む』とあります。どうゆうことでしょうか。また、どのようにして御霊によって歩むことができるのでしょうか。」
Y・Wさん、いつも聖書に関するご質問をお寄せくださりありがとうございます。ご質問いただいた個所は、ガラテヤの信徒への手紙5章16節以下のことだと思いますが、Y・Wさんが手にしている翻訳聖書は、口語訳聖書か新改訳聖書だろうと想像いたします。というのは、新共同訳聖書では「御霊」という用語が使われなくなったからです。では、今まで「御霊」と翻訳していた個所をどう訳しているかというと、クォテーションマークをつけて”霊”と表記するようになりました。
ところが、話はそんなに単純ではなくて、今まで口語訳で「御霊」と訳していた部分が全部クォテーションマーク付きの”霊”になったわけではありません。ほとんどの個所ではクォテーションマーク付きの”霊”と訳されますが、一部の個所ではクォテーションマークが付かないただの「霊」と訳されています。
では、クォテーションマークが付いたり付かなかったり、その違いはなんでしょうか。実は翻訳のもとになっているギリシア語の聖書では、どちらも「霊」や「息」や「風」を表す「プネウマ」という言葉が使われています。新共同訳では「神の霊」「主の霊」「聖霊」を意味する「プネウマ」という単語が単独で出てくるときにはクォテーションマークを付けて翻訳するようにしました。ただし、原文にすでに「神の」とか「主の」などの言葉が付いているときには、クォテーションマークを付けずに「神の霊」「主の霊」とそのまま訳しています。
さて、どうでもいいような、こんな話から始めたのには、理由があります。というのは、Y・Wさんがご質問してくださったガラテヤの信徒への手紙5章16節以下を新共同訳聖書で読むと、クォテーションマークが付かない「霊」という翻訳が使われているからです。
ところが、6章1節で「”霊”に導かれて生きているあなたがたは」という時に、その場合の「霊」にはクォテーションアークを付けています。
話がややこしくなってしまって申し訳ないのですが、ガラテヤ6章1節は「霊的な」という形容詞が使われていて、口語訳聖書のように「霊の人」とも訳せますし、また、新改訳聖書のように「御霊の人」とも訳せるのです。そして、新共同訳聖書は、ここを「神の霊の人」という意味でクォテーションマークを付けて訳しているのです。
つまり、Y・Wさんがご質問してくださった個所に出てくる「霊」は「聖霊」のことを指しているのか、それとも人間の霊のことを言っているのか、新共同訳聖書の翻訳では、人間の霊を指しているように理解できるからです。
つまり、この個所をクォテーションマークのつかない「霊によって歩む」ととるのか、「御霊」つまり「聖霊によって歩む」と理解するのか、そこから話を始めなければならないからです。
結論から先に言えば、この個所は「人間の霊」のことを言っているのではなく、聖霊ことを言っているのだと考えるのが自然です。
確かに、直後に続く文章には「霊」と「肉」とが対比されています。もちろんこの場合の「霊」と「肉」というのは「霊魂」と「肉体」という人間を構成する要素を二つに分けて考えているわけではありません。この場合の「肉」というのは「肉体」というよりも、人間の思いを支配する「肉的な思い」あるいは「地上の欲望」と理解すべきです。パウロは霊魂と肉体との二元論を持ちだしているわけではなく、まして、肉体は霊魂に劣っているという考えがそこにあるわけでもありません。
パウロの考えでは、神に敵対する人間の罪深い思いや欲望、罪の原理を「肉の欲望」と呼んでいるのです。そして、その「肉の欲望」が一人の人間全体をむしばんでいるのです。決して、肉の欲望は肉体にだけしか影響を及ぼすことができないという意味ではありません。
では、それに対立する「霊」とは何でしょうか。「人間の高貴な精神」ということでしょうか。そうではありません。先ほども述べましたが、罪に堕落した人間は一人の人間として全体が罪に影響されているのです。ですから、罪の影響からまったく自由である「内面」というものの存在を聖書は認めていないのです。
では、ここで言う「霊」とは何でしょう。
そもそも、「霊」という言葉は、ガラテヤの信徒への手紙の中ではここで初めて出てくる言葉ではありません。3章2節では「あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と述べて、この場合の「霊」がもとから人間の内にあったものではなく、神から受けたとったものであることを明らかにしています。しかもそれは、律法を行うことによってではなく、福音を信じたからだとパウロは述べます。
さらに、これを受けて3章3節では「あなたがたは…”霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と述べて、ガリラヤの信徒たちを叱責しています。「”霊”によって始めた」というのは、直前の節で述べているように、神から聖霊をいただくところから、クリスチャンの歩みは始まるのです。そして、その「霊」は「御子の霊」と呼ばれ、この「霊」によって「アッバ、父よ」とわたしたちは呼ばわるのです(ガラテヤ4:4、ローマ8:15)。
この一連の流れの中で、5章16節以下の言葉を理解しなくてはなりません。「霊によって歩む」というのは、神から受けた霊によって歩むということです。この場合の「歩む」という言葉は、5章25節で「生きる」と言い換えられているように、信仰の歩み、信仰生活全体を指しています。さらに5章25節では「霊によって前進しましょう」と言われていますが、この場合の「前進する」という言葉は「一列に進む」という軍隊用語ですから、イメージとしては「御霊によって歩む」というのは、個人のクリスチャン生活ではなく、共同体としてのクリスチャン生活が念頭にあるようです。
さて、以上の説明でも、まだ、「御霊によって歩む」ということが、具体的にどういうことなのか、はっきりしないかもしれません。
しかし、逆を考えてみてください。パウロはここで肉に従う歩みと対比して、御霊に従う歩みを描いています。この場合、わたしたち人間は、あえて命じられなくても肉に従う歩みをしてしまうものです。それが罪に堕落した人間の生き方です。肉の思いに従って歩むとはどういうことなのか、悩むまでもなく、罪の思いの導くままに生きていれば、結果は肉に従って生きる生き方を完璧に送ることができるのです。
同じように救いに入れられたクリスチャンたちも、やがては命じられるまでもなく、御霊に導かれるままに生きていくときに、悩むまでもなく神の御心を行うものとなるのです。御霊によって歩むとはそういうことなのです。
その場合、パウロが特に念頭に置いているのは、5章前半で述べているとおり、クリスチャンはまことの自由を得させていただいたのですから、その自由を肉に罪を犯させる機会としないで、愛によって互いに仕えることを心がけることです。そして、そうした愛の思いは、ほかならない御霊の結ぶ実なのです。
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