タイトル: どう愛すれば良いのでしょうか ハンドルネーム・サクラさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・サクラさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、お久しぶりです。
随分長い間付き合った人が居たのですが、少しワケありの人でした。自分なりに相手のためになればと考えて行動してきましたが、多額とは言い切れませんが、お金を貸したままになってしまい、このままでは相手のためにもならないと思い内容証明を送りました。
恋の情熱が冷めても、借金だらけになっても、病になっても、さらに相手が他の人と付き合っても、どこまでも理性で相手を大切にし続けることが「愛」だったのでは? 少なくとも結婚するとしたら、そんな風に愛し続けるべきだったのでは?と悩んでしまいました。
友人は『現実問題として、付き合い続ける限界だったと思うよ』と言ってくれましたが、どこまで許し(赦すとは違います)、どのように愛すれば良かったのでしょうか。」
サクラさん、お久しぶりのお便りありがとうございました。番組で取り上げるのが、随分遅くなってしまいましたが、サクラさんご自身は、その後、この問題にご自分なりに結論を出し、折り合いを付けることができたでしょうか。この番組が放送される時には、もうすっかり心の整理がついて、平安な気持ちで過ごされていることを心から願っています。
さて、サクラさんから初めてお便りをいただいたのは、もう十年以上も前のことだと記憶しています。きょうのお便りに出てくるそのお相手の方というのは、あのときお付き合いしていたという方のことでしょうか。お話の内容から、そうなのだろうと推察いたしました。
そして、お便りの文面から理解すると、もうその方とはすっかりお別れしているということなのですね。そして、お別れしてから後、お付き合いしているときにお貸ししていたお金の返済を催促してしまったということでしょうか。しかも、内容証明郵便を使った、相手に対して少々威圧的とも思える仕方で返済を求めてしまったということですね。
そういう自分の行動は感情的であって、理性的な愛とは言えないのではないか、もし、そうであるとしたら、どうすべきであったか、そのことが心に引っかかって、お便りをくださった、と理解してよろしいでしょうか。
さて、番組をお聴きの方にとっては、話が分かりにくいと思いますし、これだけの情報では、サクラさんがなぜ悩んでいらっしゃるのか、よく見えてこないかと思います。
番組を聴いていらっしゃる方のために、わたしの知っている限りで、差し障りのない範囲で、背景をお話してから、ご一緒に考えてみたいと思います。
まず、サクラさんとお相手の方は、同じ会社の先輩と後輩という関係でしたが、一緒に仕事をしていくうちに、先輩への尊敬から、だんだんと恋愛へと変わり、やがては結婚も夢見ていたそういう間柄でした。
その後、それぞれに同じ業種の違う会社に転職し、それでもお二人の親しい間柄は続き、サクラさんから初めてお便りをいただいたころは、ちょうどそのような時期だったのではないかと記憶しています。
それから間もなくして、詳しい事情は聞いていませんが、お相手の方に経済的な困難が生じてお金を工面してあげるようになったということでした。それも、一回や二回ではなく、数回に及んで、その金額も相当な額になっていたと記憶しています。もちろんサクラさんとしては、結婚を考えるほどの相手ですから、それぐらいのことは喜んでしていたようです。
さて、その後のことはサクラさんから頂いたお便りの中でたまに出てくるくらいで、つかず離れず、しかし、お二人が出会われて15、6年近い歳月が流れるうちに、もはや結婚の道も遠のいてしまったというところまでは耳にしていたように記憶しています。
それから5年近くたってのお便りですが、そういう経緯をたどってきょうの話につながってくるわけです。
ラジオを聴いていらっしゃる方の中には、この話を聴いて、結婚詐欺ではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、いいように利用されていただけだ、とおっしゃるかたもいるかもしれません。その可能性を完全に否定することは、わたしが知っている情報だけからはできませんが、その反対に、そうだと断定する十分な情報もありません。いずれにしても、サクラさんのご質問は、そのことを問題としているわけではありません。相手がどうであれ、ほんとうに愛するとはどういうことなのか、そのことを真剣に悩んでいらっしゃるということです。
さて、今までいただいたサクラさんからのたくさんのお便りを読ませていただいて、サクラさんがどういう方であるか、ということは、わたしなりの心証を持っています。物事をとても真面目に考え、何かをいい加減に放っておくことのできない、そういう性格の方です。
今回のことも、ご自分の行動を冷静に省みて、どうあるべきだったかを真剣になやんでいらっしゃるのだなぁ、と思いました。それはとても素晴らしいことなのですが、しかし、そのために苦しんでいるサクラさんの姿を思い浮かべるのは、とてもつらくも感じます。
正直のところ、愛し方に模範解答はないように思います。いえ、神様ならば完璧に人を愛することがおできになるでしょうけれども、わたしたちは神様ではありませんから、どんなに一生懸命に人を愛したと思っても、それが正しい愛し方であったのかどうか、あとになって自信が持てないということもあると思います。
サクラさんのご質問に、「あの時、こうすべきだった」と答えたところで、過去にさかのぼってそれをやり直すことはできません。そう言う意味ではあるがままのご自分を受け入れるしかありませんし、そういうご自分を神様の愛に委ねていくしかありません。
もちろん、過去のためにではなく、これからのためにご質問されているのでしょうけれども、しかし、何時までもその方への思いで自分が振り回されているのも、どういうものかと思いました。
少なくとも今は相手からのアクションがあるわけではないのですから、その人については愛する責任の範囲にはいないのだと思ってしまわれてもよいのではないでしょうか。何か相手からのアクションがあったときに、これからどう愛するべきなのか、それをその時考えても決して遅くはないと思います。
それから、もう一つ、借金の返済を求めて内容証明郵便で催促したことについてですが、サクラさんはそれを愛のない感情的な行動だったと悔やんでいらっしゃるようですが、ほんとうにそうだったでしょうか。
確かに、貸したお金が返って来ないのを平気でいられる人は少ないでしょう。まして自分の生活が苦しい中からお貸ししたものが、戻って来ないとなれば穏やかでいる方が難しいでしょう。そう言う意味では、サクラさんの気持ちがまったく冷静だったとは言えない部分もあるのかもしれません。
しかし、理性で人を愛し続けることは、感情を捨て去ることではないと思います。むしろ、感情をもって生きながらも、なすべきことを見失わないことが大切なのではないでしょうか。
少なくとも、いただいたお便りによれば、お金の返済を求めるに踏み切ったのは、ただの感情からだけではなく、「このままでは相手のためにもならない」と相手のためを思ってのことでした。
なるほど、もしこれが夫婦間のことであれば、内容証明郵便など送ったりはしないでしょう。しかし、現実にはサクラさんと相手の方は夫婦ではないのですから、そういう方法を取ったとしても、決して愛がないと非難されるようなことではないと思います。
先ほどもいいましたが、今は過去のことを悔やんでも始まりませんし、これからのことは新しい事態が起こったときに、どう愛するべきなのかをその時考えても遅くはないのではないでしょうか。
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