メッセージ: 神の子であるキリスト(ルカ22:63-71)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「結論が先にある」というのは、時として真実を曇らせてしまいます。結論が先にあると、その結論を導くために都合のよい証拠を集めてしまうからです。いえ、本人にはそのつもりがなくても、結論が先にあるときにいは、公平な目や耳を失って、もはや真実を見ようとはしなくなってしまうものです。この先入観に関しては、何よりも自分自身が気をつけなければならないことだと反省しています。
さて、イエス・キリストの裁判は、公平な裁判というよりは、まさに結論が先にあったと言うべき不当なものでした。きょうはユダヤの最高法院で尋問を受けるイエス・キリストの姿から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章63節〜71節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
今お読みした個所には、逮捕された後、イエス・キリストがお受けになった辱めとユダヤ最高法院での尋問の様子が描かれています。
人の心とはこうも変わってしまうのかと思うほど、逮捕されたイエス・キリストに対する扱いはひどいものがありました。もっとも人権という思想がまだ発達していなかった時代のことなので、こんな扱いはそれほど珍しいことではなかったかもしれません。しかし、また逆に、人権という考えが高く唱えられる現代とはいっても、人の心の奥底にある残忍さは昔も今もそれほど変わっていないようにも感じます。
ただ、ここでわたしたちが目をとめたいのは、人間の残忍さではなく、この苦しみと辱めを黙々と受けているイエス・キリストの姿です。
イエス・キリストはこの日の事態を、不意に襲ってきた予想外の出来事とは思っていませんでした。予め弟子たちに告げたとおり、エルサレムで待ち受けていたことが、今、まさに自分の身におこっているのです。
それは預言者イザヤが預言した「苦難の僕」を思い起こさせる姿です。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。…苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:3,6)
最高法院での取り調べに先立って、これほどの屈辱的な扱いを受けて、体も心も打ち砕かれてしまっても当たり前なほどのイエス・キリストでした。しかし、最高法院の前では、少しも揺らぐことのない姿勢を貫かれたイエス・キリストです。
夜が明けて招集された最高法院で、いよいよ本格的な取り調べが行われます。新共同訳聖書では、この部分を「最高法院で裁判を受ける」という標題にしています。
もっともこれが正式な裁判であったのかどうか、性格がよくわからない尋問の場でした。このあと次の章では総督ピラトのもとでの裁判が開かれますが、そこへの訴えの口実さえ見つかれば、目的は十分に果たせたと言えるでしょう。どの道、ユダヤ最高法院には死刑を執行する権限がありませんでしたから(ヨハネ18:31)、自分たちの宗教裁判だけでは目的は達成することは出来ません。目的を遂げるために強引に結論が導き出されます。
問題の争点は、イエスがメシアであるかどうか、ということでした。それもローマ帝国にとって害悪となるような政治的なメシアであることを訴えの口実としなければなりません。続く23章に記されているとおり、総督ピラトに訴え出たのは、この男が人心を惑わす政治的なメシアであるからという理由でした。すでに死刑判決までの筋書きは出来上がっていました。
しかし、実際にユダヤ最高法院でなされたやり取りは、イエス・キリストにとって何の不利な証拠も明らかにできるものではありませんでした。
「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と自白をせまる最高法院に対して、イエス・キリストは「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」と直接の答えを避けます。イエス・キリストはユダヤ最高法院が描きたいような政治的メシアではないからです。そうかといって、かつて弟子たちに語ったように、罪の赦しのために身代わりとなって多くの人のために苦しまれるメシアだと説明しても、彼らが聞く耳をもたないことは明らかです。
しかし、メシアであるかどうかの言明を避けたイエス・キリストは、ご自分について「今から後、人の子は全能の神の右に座る」とだけはっきりと付け加えられました。
「人の子が全能者の右に座る」というイメージは、預言者ダニエルがその書物の7章で描いている、神から権威と威光と王権を受けた「人の子」のイメージと重なるものがあります。しかし、それはダニエル書が語っているような、遠い将来起こる事柄としてではありません。そうではなく「今から後」といえるほどすぐにも起こる事柄です。
イエス・キリストは人々からひどい仕打ちを受けている中でも、神の右に座するほどの権威を持ったお方なのです。
しかし、このイエス・キリストの言葉に対して、最高法院は強引なほどの結論をそこから引き出そうとします。
「では、お前は神の子か」
確かに権威と威光と王権を受けた王は、神から「わが子」と呼ばれるのですから、イエス・キリストが神の子であることは、彼らが言う通りです。
しかし、この質問に対しても、イエス・キリストははっきりとはお答えにはならず、あいまいな返事をします。
「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
肯定とも否定とも取れる言い方です。
しかし、ユダヤ最高法院では、その言葉を、神の子であることを認めた自白と受け止め、自分を神と等しい者とする冒涜の罪を犯した者と決めつけたのです。
結局のところ、イエスを政治的なメシアであるとして、謀反の罪で訴える証拠は何一つとして見出しませんでした。ただ、民族の宗教的感情に十分訴える口実だけは手に入れたと言ってもよいでしょう。もはや目的さえ達成できれば、手段はどうでもよいといった印象です。
さて、ここからわたしたちはどんなことを学ぶべきなのでしょうか。不当な裁判を平気で行う人間の罪深さでしょうか。確かにそうした闇を人間は心のうちに抱えています。
しかし、ここで学ぶべきことは、実にまことのメシアであり、神の子であるお方が、わたしたちの罪の救いのために、すすんで苦しみの道を歩まれているという事実です。その苦難のうちにあるキリストを「今から後、全能の神の右に座る」お方として見上げていく信仰が求められているのです。
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