メッセージ: 迎え入れてくださる神(ルカ15:11-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げるのは有名な「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる話です。もっとも話の中心は放蕩息子にあるのではありません。息子たちを迎え入れる父親の話です。「息子たち」とあえて言ったのは、父から離れていったのは、弟の方だけではないからです。兄息子も父の家にはいましたが、心は父親から離れているからです。
きょうは前半の弟息子を迎える父の話をとりあげます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 15章11節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
先週はいなくなった一匹の羊を探す羊飼いのたとえ話と無くなった一枚銀貨を探す女のたとえ話を学びました。どちらも失われた罪人を慈しんで尋ね求める父なる神の姿を語ったものでした。
きょうは同じテーマの三つ目のたとえ話です。いなくなったのは羊や銀貨ではなく、人間です。
そもそもこのようなたとえ話をされたのは、徴税人や罪人と呼ばれる人たちを迎え入れるイエス・キリストをファリサイ派の人々や律法学者たちが非難したからです。
言うまでもなく、きょうのたとえ話に登場する弟は、ファリサイ派の人々が嫌う徴税人や罪人たちを表しています。父親は天の父なる神御自身です。
弟息子は自分が相続するはずの財産を早々と手にして、父のもとから離れて行ってしまいます。父のもとから出て行ったのには、それなりの高い希望と理想があったからでしょう。自堕な生活を夢見て家を飛び出す人はいません。みんな素晴らしい未来を夢見て出ていくものです。少なくとも、今よりはずとましな暮らしが待っていると期待に胸を躍らせるものです。
しかし、せっかく父親が用意してくれた財産も、無駄に使い果たしてしまいます。弟息子の姿は自分が描いていた理想とはどんどんかけ離れていきます。自分が管理するはずの富に弄ばれるだけ弄ばれて、挙句の果ては手元から財産は全部消えてしまいます。
悪い時には悪いことが重なるものです。飢饉がその地方を襲います。飢饉がその地方を襲ったのは弟の責任ではありません。しかし、飢饉に対処できるだけの財産を無駄に使って失くしてしまったのは、自分自身の責任です。
羽振りのいいうちは、みんながちやほやしてくれたことでしょう。しかし、一文無しとなった弟息子を助けてくれる人は誰もいません。やっとのことで身を寄せるところを見つけても、その人は弟息子を畑にやって豚の面倒を見させます。
豚はユダヤ人にとって汚れた動物です。豚など飼うユダヤ人はいません。
そうです。弟が身を寄せたのは真の神を知らない異邦人の家だったのです。そして、豚の世話をして、豚の餌でも構わないから飢えをしのごうとします。
しかし、その豚の餌であるいなご豆さえくれる人は誰もいないのです。人間らしい自由を謳歌するために父のもとを飛び出したはずなのに、現実の自分は豚以下の生活です。父のもとを飛び出して、どれほど人間らしくなれたのでしょう。神なき世界で人間の尊厳さを貫くことができたのでしょうか。
落ちるとこまで落ちて気がつきました。自分がもといた場所、父親のもとにある豊かな暮らしを思い出したのです。
「そうだ、お父さんの所に帰ろう」、弟息子はそう思って、帰る道々お詫びの言葉を考えました。
さて、このたとえ話の本題はここから始まります。
帰ってきたこの息子を、父は叱り飛ばしたでしょうか。そらみたことか、といって軽蔑したでしょうか。
いいえ、息子がまだ遠く離れていたのに、この父親は目ざとく見つけて走り寄ってきたのです。
そうです。息子の帰りを今か今かと毎日のように心配して気にかけていたのです。だからからこそ、まだ遠くにいる息子に真っ先に気がついたのです。しかも、待ち切れずに自分から駆け寄って行って抱きしめ、接吻して迎え入れるほどです。
そればかりではありません。道々考えた弟息子のお詫びの台詞を最後まで言わせません。「雇い人の一人にしてください」と言おうとする息子の言葉をさえぎって、一番良い服と指輪と履物を用意するようにと召使いに命じます。裸足の奴隷としてではなく、履物をはいた実の息子として迎え入れようとしているのです。
父親は召使いたちみんなに言いました。
「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」
この父親の言葉こそ、罪人を迎え入れる天の父なる神のお心を言い表しているのです。そして、その父なる神のお心を、イエス・キリストはご自分の身を通してお示しになっていらっしゃるのです。
イエス・キリストの教えを聴こうとして集まってきた徴税人や罪人たちを、天の父なる神はこのように迎え入れてくださっているのです。
いえ、それは過去の昔話ではありません。今も父なる神はご自分のもとから離れていったわたしたち罪人を、イエス・キリストを通して喜んで迎え入れようとしていらっしゃるのです。
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