聖書を開こう 2010年3月18日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の国への招き(ルカ14:15-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もうずいぶん前の話になります。滞在中だったホテルの宴会場で、アラブ系の人たちの結婚披露宴が行われていました。会場の中からは陽気な音楽が聞こえてきます。開いた扉の隙間から中をのぞくと、歌ったり踊ったり、それはそれは楽しそうな宴会でした。体全体を使って喜びを表現するほど、待ち遠しかったほどの嬉しさがこちらにも伝わってきました。
 その様子を見ながら、きょう取り上げようとしているイエス・キリストがしてくださった大宴会の譬え話のことを思いました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 14章15節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 きょうの場面も、先週に引き続き、あるファリサイ派の人に招かれた食事の席での会話です。先週取り上げた個所で、イエス・キリストは上座につかないように、また、宴会に招くならお返しのできない人々を招くようにとお語りになりました。それは上座を望むファリサイ派の人々に対する批判であり、また、仲間内にしか目を注がないファリサイ派への批判でもありました。
 今日取り上げるイエス・キリストのたとえ話では、もっとも大切な神の国での宴会に、上座にあずかるどころか、宴会そのものから締め出されてしまう選民イスラエルの皮肉な姿が描かれます。自分たちのために用意された宴会の席に自分たちがあずかれないばかりか、自分たちが嫌って締め出した人々がその席に着くというのです。

 さて、聖書の世界では、神の国での救いの完成はしばしば宴会に例えられました(イザヤ25:6)。そして、当然のことのように、選民であるイスラエルはその宴会にあずかれるものと考えられていました。事実、神はイスラエルをこの宴の席に招いておられるからです。

 きょうのたとえ話の中に出てくる盛大な宴会も、神の国での救いの完成をたとえたものです。宴会を主催する家の主人は、ここでは神御自身を表しています。そして、最初に宴会に招かれた招待客は選民イスラエルです。
 神はあらかじめイスラエルを客人としてこの宴会に招いておられました。イスラエルも救いの完成であるこの宴会を今か今かと待ち望んでいました。しかし、いざ、宴会の準備が整い、つまり、メシアである救い主イエス・キリストが遣わされ、救いの計画も最終段階に来た時に、招待していた客人であるイスラエルの人々は、次々にこの宴会への招きに応じようとしなくなったのです。

 宴会への出席を急に取り消そうとする理由はざまざまです。ある人は畑を買ったので見に行かなければならないと言い、ある人は牛を買ったので調べに行かなければ、と言い、さらに別の人は妻を迎えたからと言い始めます。理由はざまざまですが、結果は宴会を突然欠席するという点で同じです。理由は様々ですが、結論は大事にしたいものが他にあるという点で同じです。

 すべての準備が整ったこの期に及んで、突然の取り消しを申し入れることは、招待してくれた家の主人に対して失礼であることは言うまでもありません。しかし、それ以上に失礼なのは、この用意された宴会が、他のことを犠牲にしてまで行くに値するものではないと評価した点です。
 一方で神の救いを待ち望みながら、しかし、他方では神の救いを放棄してしまうという愚かな過ちを犯しているのです。

 イエス・キリストは選民であるイスラエルを、特にファリサイ派の人々をそのようにご覧になったのです。

 さて、このような事態に対して、家の主人ははげしく怒ります。怒って、もともとの招待客ではない他の人たちを宴会の席に連れてくるように僕たちに命じます。新しく招かれたのは、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人などです。この突然の招待に対して、何のお返しもできないような人々です。それは言いかえれば、ファリサイ派の人々が招こうともしなかった、同じ救いに与る仲間とはみなしてこなかった人々です。

 しかし、それでもまだ宴会の空席は埋まりません。さらにまだ席に空きがあることが分かると、今度は「通りや小道」に出て行って、人々を集めてくるように命じます。「通りや小道」というのは、町の中にある「広場や路地」に対して、町の境の外へ通じる道を指しています。言いかえれば、イスラエル民族に限らず、異邦人にまで救いの招きが広げられたのです。イスラエルが神の招きを拒んだ結果、選民意識によって見捨てられた人々や異邦人に救いが及ぶようになったのです。

 さて、このたとえ話は、ファリサイ派の人たちに語られた、警告をこめたたとえ話です。そういう意味では、異邦人であるわたしたちには、棚から牡丹餅の様なありがたい話です。しかし、このたとえ話からわたしたちが学ぶべきこと、聞くべきことはないのでしょうか。

 まず第一に、この宴会は何を差し置いても行きたくなるような、楽しい喜びの機会であったはずです。義理や付き合いで嫌々ながら招待を受けたものではなかったはずです。そのような喜びの機会を、行くに値しない価値のないものに変えてしまったのは、他ならないイスラエルの人たちの心のありようです。そのことは、わたしたちの心にも起こりうることです。
 日曜日ごとに守られる主の日の礼拝は、やがて完成する神の国での救いを先取りしたものです。それは何よりも喜びの機会です。ほかの何かがその喜びの機会を奪ってしまうことを許してしまう心になってはいないでしょうか。もしそうだとすれば、それはかつてのイスラエルの失敗を繰り返すことになります。

 第二に、イスラエルが神の救いの招きを拒んだことが、わたしたちの救いの機会となっているその事実は、今もなお続いています。それはわたしたちの功績でも功徳でもありません。ただ恵みとして与えられているものです。そして、今もなおその恵みの時は続いているのです。そうだとすれば、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じた神の御心は今も生きているはずです。世の終わりまで、この神の招きの声を伝え続けましょう。

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