おはようございます。高知教会の久保浩文です。
私達の人生は日々の積み重ねから成っています。毎日同じ時間に起き、同じ道を通り、同じ仕事をする。たとえその中で、自分でも変えた方が良いと思うようなことがあっても、長い間かかって積み上げてきた生活はそう簡単に変えられるものではありません。「明日はもっと違う自分になりたい」そう思っても次の朝、目が覚めればまた、同じことを繰り返しているのです。
聖書に次のような話があります(ルカ19:1-10)。エリコという所で、徴税人の頭をしていたザアカイという人がいました。徴税人は、この当時、ローマ政府から請け負って人頭税、財産税、輸出入の通関税をローマ人以外のユダヤ人や他の国民から徴収する仕事をする人たちです。これだけですと、別段普通の仕事と思われるでしょう。しかし、彼らは、自分たちを支配していたローマ政府のために、その権威を楯に同じ民族のユダヤ人から税を厳しく取り立てたのです。しかも、しばしば決められている額以上の税金を不当に取り立て、私腹を肥やしていました。そこで、ユダヤ人たちは、徴税人を心から憎み、さげすんでいたのです。
徴税人は「罪人」と呼ばれ、彼らと食事を共にすることも、同席することすら、避けられていました。ザアカイは、その徴税人の頭であったために、容赦ない非難の的となっていたのです。彼は地位も財産も手に入れましたが、その代わりに孤独と人々の冷たい視線の中で生活を送っていました。
このザアカイに人生の大きな転機が訪れます。エリコの町に、イエス・キリストが来られたのです。イエス・キリストが来られるという噂を聞いて、彼は、その御姿を一目見ようと、沿道に群がる群衆の前に出ようとしました。しかし、彼のために道をあけてやろうという人は、一人としていませんでした。イエスを囲む人々のざわめきが近づいてきても、ザアカイの前には敵意に満ちた人々の背中が見えるだけでした。するとザアカイは、近くにあったいちじく桑の木に登ったのです。木の上のザアカイには近づいてこられるイエス・キリストの姿がよく見えました。ザアカイのすぐ下をイエスが通って行かれると思ったその時、イエスが上を見上げました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイにとっても、まわりを取り囲んでいた群衆にとっても、これは驚きの言葉でした。徴税人の頭、ザアカイの家に泊まりたい。イエスの固いご決意でした。ザアカイは大喜びでイエスを自分の家に迎えました。
人々から見向きもされなかった自分の所にイエスの方から訪ねて来て下さったのです。これは彼にとって、罪の赦しを意味します。彼もこれに応えるかのように、自分の財産の半分を貧しい人々に施すことと、だまし取ったものを四倍にして返すことを約束しました。この告白は、神の恵みのあらわれであり、神の国が彼の心の中に深く入って来られたことを意味します。こうしてザアカイは、新しい心で、人生の再スタートを切ることができたのです。
私達の人生の再出発は、イエス・キリストとの出会いによって始まります。それも、イエスの方から「あなたの所に泊まりたい」と訪ねてきて下さるのです。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)。