BOX190 2010年10月27日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 葬儀は喜びの時ではないのですか? ハンドルネーム・tadaさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「以前通っていた教会では、教会員が亡くなったときの葬儀をどういう形で行うかを、全員がそれぞれ決めておられました。そして、牧師は、まさにそのことは暴挙でありながらキリスト者の特権だと話されていました。誰もがいつかは迎える葬儀の準備を元気なうちからしておかれるようです。
 ところで、葬儀に際して、キリスト者の方々はどうして悲しみを表されるのでしょうか。この世を離れて、天の国に迎え入れられる約束がなされているキリスト者は、葬儀は喜びの時であるはずではないですか。そうであれば、葬儀のときには、残された遺族には一時の離別であっても、本来、悲しみではなく喜びを表す時にすべきではないですか。天の国に喜びと栄光が約束されているのですから。それと、この世にあるときに、葬儀の司式の準備をするよりも、来るべき時に復活の約束がされているのですから、教会で準備をするならば、その復活の時の準備を決めておくできではないですか。」

 tadaさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。いただいたお便りをお読みして、内村鑑三のことを思い出しました。ご存じと思いますが内村鑑三は明治・大正時代の日本のキリスト教界に多大な影響を与えた人物です。特に無教会主義を唱えたことで有名ですが、この内村鑑三が1912年に最愛の娘ルツ子を失った時のことです。葬儀の時に内村鑑三は「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」と述べ、墓地に埋葬するときに、「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだと、後に東京大学の総長となった矢内原忠雄が伝えています。

 もっとも、その内村鑑三は、娘が亡くなるひと月ほど前に、かつて女中だった高橋という人の葬儀のために岩手県の花巻に行って、説教をするはずでしたが、説教の途中で涙が止まらず、とうとう最後まで話をすることができなかったそうです。ですから、内村鑑三という人は、人の死に際して涙の一つもこぼさない冷徹な人だったと言うわけではなかったようです。

 さて、話が横道にそれてしまいましたので、tadaさんのご質問に戻りますが、おっしゃる通り「この世を離れて、天の国に迎え入れられる約束がなされているキリスト者は、葬儀は喜びの時であるはず」です。確かに聖書にもこう書かれています。

 「書きしるせ『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。”霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」(黙示録14:13)

 キリスト教信仰からいえば、キリスト者の死は喜び以外の何物でもないというのはまぎれもない事実です。わたしは死んだ経験がないので、この聖書の言葉を信じるほかはないのですが、亡くなったキリスト者の当人は、楽園でキリストと共に至福の中にいるわけですから、悲しみようがないと思います(ルカ23:43、フィリピ1:23参照)。

 しかし、地上に残っている遺族の方たちは、キリストのもとへ行った故人が、キリストのもとで安らぎを得て、最高の祝福の中にいると、頭では理解できても、自分自身がその祝福に今あずかっているわけではありません。ですから、悲しむ必要はないといわれても、感情は理性によってそう簡単にはコントロールできるものではありません。

 使徒言行録の中に、タビタという女性が病気で亡くなる話が出てきます(9:36)。この人はやもめたちから慕われていた人で、その死に際しては多くのやもめたちが泣きながらタビタの周りに集まってきました。その場に呼ばれたペトロは泣いているやもめたちを見て、「復活を信じているなら泣くのはおかしい」とは言いませんでした。

 イエス・キリストも、ナインの町で一人息子を亡くした婦人に対して「もう泣かなくともよい」とおっしゃいましたが、それは泣き悲しんでいることを非難してではなく、憐れに思ってのことでした(ルカ7:13)。

 こうした例をみると、聖書の世界では、抑えがたい悲しみの感情を表すことそのものを禁じてはいないのではないかと思われます。むしろ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロが勧めているとおりです。ただ、その感情が信仰そのものを支配し、信仰を疑わせることがあってはならないことは言うまでもありません。

 そもそも人間にとって死が悲しいのは、それが離別の時だからだろうと思います。キリスト者にとっては、その離別は永遠の離別ではなく、一時的なものです。ただ、離別が悲しいかどうかは、その人の感受性によって違いますから一概には言えませんが、しかし、他県へ引っ越して行ってしまう友達との別れを、涙を流して悲しむ人もいるというのは事実です。死ぬわけではないですから、何時だって会おうと思えば会えるわけです。だからと言って、引っ越していく友達との別れを悲しむのは、おかしなことだとはだれにも言うことはできません。感情というのは人によってその度合いが異なるものだからです。それと同じように、復活の時にまた会えるからといって、今の一時的な離別を悲しいと感じることが、信仰に反することだとはいえないのではないでしょうか。

 もう一つのご質問の件ですが「この世にあるときに、葬儀の司式の準備をするよりも、来るべき時に復活の約束がされているのですから、教会で準備をするならば、その復活の時の準備を決めておくできではないですか。」とのことです。

 予め葬儀について、教会員に尋ねておくという教会は少なくないと思います。たいていは葬儀の時に歌ってほしい愛唱の賛美歌だったり、葬儀の時に説教に取り上げてほしい聖書の個所であったり、また場合によっては、親族の連絡先を聞いておくということもあれば、ノンクリスチャンの家族と葬儀についての話し合いを委ねられるということもあるかもしれません。本人が元気なうちにこうした準備を進めておくということは悪いことではないと思います。

 それと同じような意味で、復活の時の準備をするというと、具体的にはどういうことをお考えなのでしょうか。
 例えば、復活したら、うちの教会はみんなでおそろいのTシャツを着て、天国三丁目の広場に集合して、讃美歌12番を歌いましょう、ということでしょうか。ただ、復活の時におそろいのTシャツを着ることができるのか、そして、天国三丁目があるのかどうか分からないので、そういう準備の打ち合わせには意味がないことは明らかです。

 ただ、復活に関して、今この地上でしかすることのできない準備があるとすれば、それは救い主である主イエス・キリストを信じることだけではないかと思います。そうでなければ、復活して最後の審判の席につくときに、自分を救う望みはどこにもないからです。

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