BOX190 2009年7月8日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 飢えの救済と住民の権利はどっちが大切? 神奈川県 T・Oさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのT・Oさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「先日、ネットでニュース記事を読んでいたら、こんな記事に出会いました。
 東京下町のある教会で行なわれている路上生活者のための炊き出し活動に対して、近隣の住民から即時中止の要請が出されているという内容でした。中止を求める理由は路上生活者が近くにいるとトラブルが起りそうで不安だということだそうです。この教会では既に七年以上にわたって活動を続けているそうですが、食糧配給に伴って路上生活者が事件を起こしたという前例はないそうです。毎週日曜日の礼拝の後、炊き出しのお弁当を配っているそうで、最近では多いときに五百食を越えることもあるとの話です。
 五百人を越えるホームレスの人が食べ者を求めて並んでいる様子を想像してみると、確かに近隣の住人の方たちの心が穏やかではないというのは理解できるような気がしないでもありません。
 しかし、この活動を止めさせれば、現実に五百人もの人たちの飢えはどうなるのでしょうか? 自分たちの生活さえ快適ならば、五百人の人たちの生活などどうでもいいことなのでしょうか。
 このニュースの記事を読んでいて、何だか人間が人間として扱われなくなった世の中を、これでよいのかと思いました。
 山下先生はどう思われますか? 先生のお考えをお聞かせください。よろしくお願いします。」

 T・Oさん、お便りありがとうございました。お便りをいただいて、さっそくその教会の活動についてネットで調べてみました。実際に現場に行って自分で調べたというわけではありませんから、公平な評価とはいえないかもしれません。ただ、教会側としても予想される様々な苦言に対しては、これまでもできる限りの対応の努力はしてきたとのことです。例えば、ゴミが散らからないようにするとか、給食を求める人たちが早々と集まらないようにするとか、いろいろな工夫をしてきたそうです。そうした努力にも関わらず、住民の理解が得られず、活動中止の要請となったとのことのようです。

 さて、そもそもホームレスと呼ばれる人たちの生活は誰が支えるべきなのでしょうか。もちろん、自分の生活は自分で支えるというのが大原則なのは言うまでもありません。しかし、自分の落ち度ではない理由で、自分の生活を支えることができない人の場合はどうなのでしょう。
 その場合には公的な支援か、私的な支援に頼る他はないと思うのです。ただ、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証する憲法25条がありますから、国が最後の砦となるのだとは思います。もっとも、その国を支えるのは国民一人一人なのですから、本当に働くことが出来ない人の生活の面倒は最後は国民一人一人にかかってくるということになります。

 ところで憲法が言う生存権はあくまでも理念ですから、それが具体的に機能するためには立法府によって法律的に具体化されなければならないわけですし、また法律化されたことを具体的に動かしていくには行政機関の働きがなければ具現化できないことです。しかも新たな問題に対応するためには、それなりの時間が必要とされることも言うまでもありません。
 そうなると、最終的には公的な機関が面倒を見ることになるとしても、即座に対応ができるというものではありません。その隙間を埋めるにはどうしても私的な、あるいは民間の機関の応援が期待されます。

 従って、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利そのものを否定するという見解を取らない限り、そうした機関の活動そのものを否定することはできないだろうと思います。もちろん、住民の方たちは、生存権そのものを否定しているのではないでしょう。

 では、何が問題となって、中止の要請が出ているのでしょうか。活動の仕方が地域住民にとって迷惑だからでしょうか。なるほど、どんなに正当な活動でも、他人の迷惑の上になされるというのでは、地域住民の理解を得られません。もっとも、ただ迷惑というのではあまりにも漠然としています。今回の場合、具体的に切り分けることのできる「迷惑」に関してはそれなりの工夫がなされていますから、そうした事に関しては住民との間で折り合いがついているとも見受けられました。
 結局のところ、住民の側が最後まで譲ることができなかった点は、T・Oさんからいただいたお便りから判断すると、何かトラブルが起るかもしれないという住民の「不安」が活動の中止を求める一番の大きな理由ではないかと思いました。
 もちろん、不安だからやめて欲しいという理由は立派な理由かもしれません。例えば、自分の家の隣りに火薬工場ができるとすれば、爆発の危険があって不安だからやめてほしいと思うのは当然でしょう。
 では、同じように、ホームレスの人たちが集まるとトラブルが起りそうで不安だからやめてほしい、と主張することができるのでしょうか。

 その場合の「不安」というのは、やや具体性に乏しいような気がします。ホームレスの人は一般の人よりも危険な人物なのでしょうか。あるいはホームレスの人が五百人集まる場所で発生するトラブルは、一般人五百人が集まる場所で発生するトラブルよりも発生の確率が高いのでしょうか。もし具体的な数字が出ているのであれば、住民の不安には十分な根拠があると思います。しかし、ホームレスの人は危険だという先入観から来る不安だとすれば、それは単なる偏見に過ぎません。したがって活動中止を求めるだけに十分な根拠ではないよういに思います。

 もっとも、こういう議論の仕方では、どこまで行っても平行線になってしまうだろうとは思います。もし、ホームレスに対する偏見が根っこにあるのだとすれば、問題を解決することはそう簡単ではありません。偏見というものをなくすためには時間をかけた教育を全国的に行う必要があるからです。

 T・Oさんのお便りにはありませんでしたが、住民の方たちの本音には、どうして自分たちの地域だけが、という思いもあるのかもしれません。全国津々浦々で、このような支援活動が当たり前のように行なわれていれば、住民たちの反応も少しは違ったものになっていたのではないかと思います。そういう意味では、慈善活動そのものが少なく、慈善活動に理解の乏しい社会を残念に思います。
 もちろん、このような慈善活動を必要としない社会が実現することが一番の理想かもしれません。しかし、人間の生存を脅かす事態がこの世の中から消滅してしまうようなことは、あと百年経っても実現しないだろうと私は思います。
 そうだとすれば、助け合いの精神について、もっと深い理解を育てることが大切なのではないかと思います。そうすれば、生存の権利か住民の権利かなどいうことで、ぎすぎすした争いも少なくなるのではないでしょうか。何よりも、自分の能力や才能だけで自分を支えきれない事態に遭遇することが誰にでも起りうる、という理解がすべての人に浸透するだけでも、世の中が変わってくるのではないかと思います。

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