タイトル: 『人の子』とは? ハンドルネーム・ホルンさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ホルンさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「イエス様の言葉について、質問させてください。
福音書を読んでいると『人の子』という言葉がイエス様の口から何度も出てきます。この『人の子』という言い方を『わたし』と読み替えても意味が通じるように思うのですが、そう理解してもよろしいでしょうか。
また、どうしてイエス様は『わたし』とは言わずに『人の子』という言い方をしたのでしょうか。解説、よろしくお願いします。」
ホルンさん、メールありがとうございました。おっしゃるとおり、イエス・キリストの言葉の中に「人の子」という表現はたくさん出てきます。今、ざっと数えてみましたが、マタイによる福音書に30回、マルコによる福音書に14回、ルカによる福音書に25回、ヨハネに福音書に12回、合計で81回出てきます。そのうちヨハネ12章34節に出てくる2回は、イエスの言葉として間接的に人々の口に上がった言葉ですから、それを差し引けば79回です。
では、それを単純に「わたし」と読み替えてしまってよいのでしょうか。確かに福音書に出てくる81回の「人の子」という言葉をすべて、「わたし」と置き換えて読んだとしてもなんの不都合もなく意味が通じるようにも思えます。もちろん、先ほども言いましたが、ヨハネの12章34節は例外です。
しかし、ただ単に人称代名詞の「わたし」に代えて「人の子」といっているだけだとすれば、同じように他の人も自分のことを指して「人の子」と呼んでもよさそうなものです。しかし、福音書の中ではイエス・キリストだけが「人の子」という言い方をしているだけです。他の誰も自分のことを「人の子」という言い方をしていません。
そればかりか、新約聖書全体を見ても、「人の子」という表現はイエス・キリストだけがご自分を指す時に使っておられる特別な表現だということにお気づきになると思います。
イエス・キリスト以外の人が「人の子」という言葉を口にするのは、先ほども挙げたヨハネ福音書の12章34節…ただし、これは間接的にイエス・キリストの言葉を引用しているのですから、結局はイエス・キリストの発言と考えてカウントしなくてしてよいでしょう。それ以外の箇所で他の人が「人の子」という言葉を使っているのは4箇所しかありません。その4箇所とは使徒言行録7章56節、ヘブライ人への手紙2章6節、それから黙示録の1章13節と14章14節です。そのうちヘブライ人への手紙に出てくるのは詩編8編からの引用ですからこれを除外します。それから、黙示録の二回は「人の子のような方」という表現ですから、これも除外します。そうすると、イエス・キリスト以外の人が「人の子」という言葉を用いているのは使徒言行録7章56節で殉教者ステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのが唯一の例外です。
さて、以上のことを考えると「人の子」という表現は単なる人称代名詞「わたし」の言いかえではないことが分かると思います。むしろ、「人の子」という表現は称号に近いものを感じさせます。しかし、そう結論付けるのも実はまだ早いような気がします。
というのは、イエス・キリストが使う「人の子」という表現はいつも同じ意味、同じ文脈の中で出てきているわけではないからです。たとえば、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)というとき、この場合の「人の子」は何がしかの特別な称号というほどのこともないようにも感じられます。
旧約聖書の中で「人の子」と言う言葉の使われかたに「人間」というのとほとんど同じ意味で使われる場合があります。特に詩編の中で「人の子(ら)」という言葉が出てくる場合にはほとんど「人」や「人間」の言い換えです。たとえば、詩編90編3節にはこうあります。
あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
ですから、イエス・キリストの言葉に出てくる「人の子」という言葉のいくつかは、特別な称号なのかそれとも「人間」という意味なのか、どちらとも言いがたいものが区別しがたいものがあります。特に、イエスが地上でのご自分の活動を指して言う時には、この傾向が見られます。もういくつか具体的な例を挙げておきます。
「人の子は安息日の主なのである」(マタイ12:8)、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12:32)。
これらに出てくる「人の子」は「人間」と置き換えても意味が通じそうです。
さて、それとは別にご自分の受難を予告される時にも、イエス・キリストは「人の子」という言い方をあえて使っています。
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9:31)
同じようにご自分の命を捧げる使命についてお語りになる時も「人の子」という言葉をあえて用いられます。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
これら、イエス・キリストがご自分の使命を語られた言葉の中に出てくる「人の子」という言葉は、ルカ福音書24章に記された二つの言葉との対比から、称号として用いられているこことは疑いようもありません。少なくともルカ福音書は「人の子」と「メシア」をほぼ同じ意味に理解しています。その二つの言葉とはルカ24章7節と24章26節です。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(24:7)
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(24:26)
最後に、やがて雲の上に乗ってやって来る「人の子」について、イエス・キリストは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)とおっしゃっています。
この言葉はダニエル書7章13節に言われる「『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」出る姿を思い起こさせます。その場合の「人の子」は漠然とした「人間」ではなく、明らかに天的な存在の称号を指し示すものと思われます。
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