BOX190 2009年3月11日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 結局は運命ですか? 東京都 Y・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのY・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「最近、思うことがいろいろあり、お便りしました。
 先生は人生が不公平だと思ったことはありませんか。自分の人生は自分で選べるようでいて、実際には選べることなどほんのわずかなことに限られているように思うのです。
 大半のことは人生の出発地点で決まっているといって言い過ぎではありません。例えば、天皇になりたいと思っても、こればかりは努力のしようがありません。天皇家の男に生まれなければ、そのチャンスは絶対に巡ってきません。逆に天皇になりたくないと思っても、皇位継承の順番が巡ってくれば拒むことはできません。
 お金持ちの家に生まれればよかったといっても、生まれてくる家を選べるわけではありません。努力すれば自分がお金持ちになれるチャンスは誰にでもあるといわれますが、ほんとうにそうでしょうか。才能がなければどうすることもできません。ある程度才能を伸ばすことができると言っても、貧乏人では才能磨きに費やす時間もお金も捻出することはできないのです。
 確かに偉人伝の中には極貧の中からずば抜けた才能が認められて名を遂げた人もいます。しかし、それとても、生まれながらにそういう天才的な才能があったからこそできたことではないでしょうか。持って生まれたものを変える努力にもやはり限りがあるように思うのです。
 結婚にしてもそうです。世界の半分は男で、世界の半分は女だからと言って、結婚相手を何億といる異性から自由に決めることはできません。出会いがなければ結婚に至らないでしょうし、出会った相手がすべて結婚の対象であるはずがないのです。一見自由のようであっても結局は決まっているようなものです。あえて言えば、結婚する自由はだれにもあるようで実はなく、自由があると言えば結婚しないという自由ぐらいでしょうか。しかし、それとても、時代と場所柄によっては、無理やりさせられる結婚もあるでしょう。例えば政略結婚などです。
 そうすると、人の人生なんて言うのは結局は運命や宿命だと思うのです。人生の選択に自由がありそうで、ほんとうはそんなものはないのではないでしょうか。たとえあったとしても、それは限られた自由でしかなく、人は運命の中で生きていくしかないのです。
 先生はこのことについてどう思われますか。お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。」

 Y・Hさん、お便りありがとうございました。おっしゃることはよくわかるような気がします。すべてが自由であるような人というのは、考えようによっては一人もいません。みんな限られた範囲の中で生きているのです。
 お便りの中にもありましたが、生まれてくると言うことから始まって、人は自分の生まれてくる時代も場所も選ぶことはできません。自分の母親や父親を子供は選ぶこともできないのです。もちろん、父親や母親が生まれてくる子供を選べるかと言えば、それもできないことなのです。
 人生のおしまいも、人は選ぶことはできません。死にたい時に死にたい場所で死にたいように死ねるかと言えば、だれにもその選択の自由はないのです
 初めと終わりがそうなのですから、その間に挟まれた人生だけがまったく自由であるはずがないのは簡単に想像がつくはずです。
 Y・Hさんは、それを運命だと呼んだり、宿命だと呼んだりしていらっしゃるようですが、それをどう呼ぼうと、人生には選べるものが少ないと言う事実は変わりません。

 ではキリスト教を信じるとそれが変わるのかというと、そうではないように思うのです。キリスト教を信じると奇跡が起って、たちどころに王家の跡取り息子になるのでしょうか。そんな馬鹿げたことは普通は起りません。キリスト教を信じると、人生の結末を自由に選択できるようになるのかと言えば、それもありえないことです。
 ただ、キリスト教を信じて変わるのは、その人生の選択の限られていることを、無機質な「運命」や「宿命」のいたずらとは捉えないで、聖書の神の特別な導きと受け入れることができるようになると言うことです。
 もちろん人生には受け容れがたいことが起りがちです。クリスチャンだからと言って、そのことを直ちに受け止めることは難しいことは分かります。しかし、受け容れがたいことであっても、それを運命や宿命のせいにして、すべてを後ろ向きに考えてしまうことは決してないのです。

 人生に選択肢がいっぱいあるようで、実際には様々なめぐり合わせの中で、限られた道しか歩めないという事実は、その現実をそんな言葉で表現しようと…それを「運命」と呼ぼうが「摂理」と呼ぼうが、その事実は変わることはありません。
 しかし、限られた選択をどのように受け止めて生きていくのかは、その人の心のあり方で大いに違ってくると思うのです。選択の余地の限られていることを運命のいたずらと理解して、それを不幸な出来事だと考えるならば、その人の人生は、その考えから解放されない限り、いつまでたっても幸福になることはできません。
 限られた選択の余地の中で人生を楽しむことはいくらでもできるはずです。事実、多くの人はそうやって自分に与えられた人生をできるだけ楽しく生きようとしているのだと思うのです。
 ただ、クリスチャンにとっては、一見限られた選択の中にも、神の特別なご配慮があると感じられるのです。それは、その人の信仰の問題ですから、あるクリスチャンが他のクリスチャンに忠告して、そのように考えるべきだと言っているのではありません。他人に人生のことではなく、他ならない自分の人生をそのように理解し、受け止めているのです。ですから、人生を運命のいたずらとしてではなく、神から与えられた恵みと捉えて、より有意義な人生を送りたいと積極的に願うのです。そういう人生観をもって生きようとしているのがクリスチャンのいきかたであり、そういう考えを可能にしているのが「まことに神はいらっしゃる」という信仰なのだと思います。そして、その神は意地の悪い神ではなく、愛に満ちた神であることが当然の前提として信じられているのです。

 人生には自由があるはずだと信じて、しかし、思い通りにならない人生を嘆き悲しむのだとしたら、それは決していい生き方ではないように思うのです。むしろ、限られた人生の選択の中で、その限られていることを受け止めながら、どのように生きようとしているのか、そのことを考えることこそがよりよい生き方であると思うのです。

 ただし、人が他人の選択を妨げて、選ばせない社会は不幸な社会です。そしてその結果生まれるものは不公平な社会でしょう。そういう人為的な不公平に大しては大いに戦いを挑むことが大切です。

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