聖書を開こう 2008年12月25日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恐れるな、と呼びかける主(ルカ5:1-11)

 クリスマスおめでとうございます。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 さて、きょうは教会の暦の上では主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスです。それに因んだ聖書の箇所をとも思いましたが、すでにキリストの降誕についての記事は取り上げていますので、いつも通り、順番にルカ福音書から学んでいきたいと思います。
 あえてクリスマスに関係する箇所を取り上げなくても、福音書の中にはわたしたちの救いに関わる恵みの言葉に満ちていますから、きっときょうの箇所にもクリスマスの意味を思い巡らすきっかけを発見することでしょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 5章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 マタイによる福音書やマルコによる福音書を読んだことのある人にとっては、きょうの箇所は少し違和感を感じるかもしれません。というのも、同じ記事のようでありながら他の二つの福音書に記されている記事とはかなり内容が違っているからです。中身が違うと言うばかりではなく、その出来事が置かれている箇所も違うからです。
 しかし、その違いの説明にあまりにも多くの時間を割くことは賢明とは思われません。というのはそれぞれの福音記者は自分たちの書いた福音書が比較して読まれることを前提に福音書を書いているわけではないからです。つまり、福音書記者の意図しないことに多くの時間を費やすことは、内容の理解にとってそれほど役立つとは思えないからです。

 ルカによる福音書の中だけできょうの記事を読むと、シモン・ペトロはここで初めてキリストから弟子として召し出されるわけです。とはいっても、すでに学んできたようにイエス・キリストと出会うのはこの時が初めてではありませんでした。
 4章38節以下にあるように、ある安息日の礼拝のあと、イエスはシモン・ペトロの家を訪ね、シモンのしゅとめの高熱を癒されます。そのことを記す記事でさえ、それが初対面の出来事であったような印象を与えません。おそらく、そのときには既にイエス・キリストはペトロの家を行き来するような間柄になっていたのでしょう。ペトロもまた何度となくイエスの話を耳にしていたと思われます。そして、少なくとも一度、自分のしゅうとめの高熱を癒していただくという奇跡を目の当たりにしているわけですから、きょうに至るまでイエス・キリストの力についてペトロが何も知らなかったということは考えられません。

 では、それ程にイエス・キリストのことをよく知っていたペトロなのですから、既にキリストの弟子であったのかというと、そうではなかったのです。いえ、ペトロはそう思っていたのかもしれませんが、イエス・キリストはそうではなかったようです。

 きょうの場面はゲネサレト湖畔での出来事から始まります。ゲネサレト湖というのはガリラヤ湖の別名です。この湖は漁師であったペトロたちの生活の場です。
 そのゲネサレトの湖畔でイエスは押し寄せてきた群衆に神の言葉を語りかけます。前回も学んだとおり、イエス・キリストは「神の国の福音を告げ知らせるために遣わされたのだ」とおっしゃって、ユダヤの諸会堂に行って神の国を宣べ伝えられました。ですから、群衆に語りかけるイエスの姿を目にすることは珍しいことではなかったことでしょう。ペトロも夜の漁を終えて網を洗いながら、イエスの様子をうかがっていたことでしょう。
 イエスはペトロの船に乗り込んで岸から少し離れた場所から群衆たちに語りかけます。ペトロも群衆たちに語りかけるイエスの話にそれとなく耳を傾けていたことでしょう。けれども、ペトロの心にはこれといった変化があったと言うわけでもありません。

 ところが、そんなペトロにイエスは個人的に声を掛けられます。

 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。

 漁に関しては言うまでもなくペトロの方が経験豊かです。

 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えるペトロ。このペトロの答えは従順なペトロの姿なのか、それとも不承不承の答えなのかは、この言葉だけからは何とも判断がつきません。

 ただ、ハッキリしているのは、このあとにペトロの心に大きな変化が訪れたと言うことです。ペトロは叫びます。

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」

 そうペトロが叫んだのは「とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである」とその理由が記されています。しかし、取れた魚の量を見て自分が罪人だと感じるというのは説明になっていません。正確には取れた魚の多さに、イエスの人間を超えた力を感じたと言うことでしょう。この神の力を持ったイエスの前に立つ時、自分を罪人として意識せざるを得ないと言うことでしょう。

 ほんとうなら、すでに自分のしゅうとめの熱病を癒していただいたとき、同じように感じるべきだったのかもしれません。ただ、問題なのは「いつ」自分の罪深さに気がつくかということではなく、自分の罪深さに「気がつく」ということ自体が大切なのです。

 イエス・キリストは「わたしは罪深い者なのです」と告白する者に「恐れることはない」と声を掛けてくださり、弟子として召し出してくださるのです。自分の罪深さに打ちひしがれる時にこそ、キリストはわたしたちを励まし、弟子としてお遣わしくださるのです。

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