聖書を開こう 2008年12月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 癒しと慰めの主(ルカ4:38-41)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「癒し」と言う言葉を耳にするようになってから、久しい年月がたちます。それまで、「癒し」という言葉が一般の文書や会話の中に出てくることはほとんどなかったように思います。せいぜい「癒す」という動詞形で使われるぐらいでした。また「癒し系の」という形を使って、「癒し系の音楽」「癒し系のキャラクター」などと使うようになったのも最近のことです。
 それほど、人々は癒しに関心を持っているということでしょうし、それほどに癒されたい何かをもっていると言うことなのだと思います。それは現代に生きる人々の内面を表しているように感じられます。
 きょうこれから取り上げようとしている箇所にはイエス・キリストの癒しの記事が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章38節〜41節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

 今日取り上げた箇所は、カファルナウムでのある安息日の出来事の続きです。会堂での礼拝を終えたイエス・キリストはシモンの家にいかれます。このシモンは弟子の一人、アンデレの兄弟のシモン・ペトロです。
 当時のユダヤ人たちは礼拝の後、先生を招いて一緒に食事をすることが習慣でした。このときも、おそらくシモン・ペトロがイエスを自分の家に招いたのでしょう。楽しいテーブルの交わりが持たれるはずでした。
 しかし、その日は残念なことにペトロのしゅうとめが高い熱を出して苦しんでいたと言うのです。せっかくのお客さんを迎えているのに、病人がいることで気を遣わせては申し訳ないという心遣いも大切かもしれません。しかし、ペトロの家に集まった人々は、高熱に苦しむペトロのしゅうとめを積極的にイエスの手に託そうと思ったのです。
 それは、もちろん、会堂での出来事を目の当たりにしたからでしょう。悪霊さえも追い出してしまうほどの権威ある言葉を発することのできるイエスです。
 しかし、ただあのような事件を目撃したからという理由だけではなかったはずです。イエスを信じ、イエスに期待する心がなければ、イエスにお願いするはずはありません。信じる心のないところには神の業もないのです。
 イエス・キリストは本当の必要から出る期待を決して裏切らないお方です。苦しむ人々のために喜んで仕えてくださいます。

 忘れてはいけないのですが、その日は安息日でした。何の働きもしてはいけない安息日に病気を癒してはいけないというのは、当時のユダヤ人の常識でした。高熱の病人をみてもらおうとする人々の願いは、その常識からは外れていました。イエス・キリストもまた安息日にも関わらず病気の人をお癒しになって、人々の期待にお応えになりました。イエス・キリストもユダヤ人の常識を破られたのです。
 いえ、苦しみを癒し、まことの安息を人々にお与えになったのです。

 病の苦しみというのは、病気の症状からくる苦しみばかりではありません。確かに、熱がある、痛みがある、というのも苦しいことでしょう。しかし、病のために働くことができないという苦しみもあります。ペトロのしゅうとめは、おもてなしをすることができないという心苦しさを感じていたかもしれません。また病が長引けば、人間関係もかわってきてしまいます。親しかった友だちが離れていくこともあります。病が長引けば経済的な状態も変わってきてしまうこともあるでしょう。そのように病状から来る苦しみのほかにさまざまな苦しみが病には伴うのです。その苦しみはどれ一つとってみても「安息」の対極にあるものです。

 そういう意味で病を癒されるイエス・キリストはまことの安息をもたらすお方なのです。イエス・キリストだけが様々な苦しみを癒し、安息へとわたしたちを導くお方なのです。

 高熱を癒していただいたペトロのしゅうとめは「すぐに起き上がって一同をもてなした」とあります。イエスの癒しがどれほど完全なものであるかを物語っているようにも読めます。高熱で苦しんでいた人が、次の瞬間にはお客さんをもてなしているとは驚きです。
 しかし、病み上がりであることさえ感じさせないほどにイエスの癒しが完璧であるということよりも、むしろ、人に仕えたいという思いを実現してくださるイエスの癒しの力に驚きを覚えたいのです。
 元気さえあれば、誰かのために働きたい、誰かに仕えて喜ばせたいと言う思いは自然と湧き上がってくるかといえばそうでもないはずです。熱を下げるだけなら、効果の優れた解熱剤は他にいくらでもあります。しかし、熱を下げて、しかも、健康である意味を実現させる薬はないのです。
 イエス・キリストによって癒していただくと言うことは、ただ病気の症状を緩和していただくということではないのです。生きる意味と喜びを見出して、それを実現する力を与えられると言うことなのです。そういう意味で、イエス・キリストはわたしたちの癒し主であり慰め主なのです。

 この安息日の出来事に引き続いて、ルカ福音書は日が暮れてからの出来事を書き記します。「日が暮れると」というのは「安息日が終わると」と言う意味です。ユダヤ人の安息日は日没から日没までだったからです。
 安息日には病気を癒してはいけないという決まりがあったので、安息日が終わると堰を切ったように、人々は病人たちをイエスのところに連れてきます。

 ここでもそうですが、人々がイエスを連れてきたのは、ただイエスなさったことを見たからとか、噂に聞きつけてという理由ではありません。人々の心にあることは、癒しを与えてくださるイエスへの信頼と、病に苦しむ者を何とか助けたいという愛の心です。その両方がないところに神の業はないのです。

 イエス・キリストはその一人一人に手を置いていやしてくださいました。もちろん、イエス・キリストは権威ある言葉の一言ですべての人の病をお癒しになることもできたでしょう。しかし、そうはなさらなかったのです。時間と手間が掛かったとしても、一人一人に手を置いておいやしになったのです。
 イエス・キリストは一人一人にとって、癒し主であり、慰め主なのです。

 癒され、慰められたのは、当の病人ばかりではありません。その人と関わるすべての人が癒され慰めを受けたのです。病の人を連れてきた人たちも慰めを受け、心癒されたのです。イエス・キリストの癒しと慰めは、直接癒しを必要とする人の周りにも及ぶものなのです。

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