聖書を開こう 2008年6月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: すべてを主イエスの名によって(コロサイ3:16-17)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャン生活について語るとき、二つの極端な立場が大手を振って、正しく物事を考えることからわたしたちを引き離してしまうことがしばしばあります。
 一つの極端は、理想的なクリスチャンの姿ばかりを語り、弱さをもった現実のクリスチャンの姿を顧みないことです。現実のクリスチャンの弱さを顧みないというのは、他人を裁くだけで、理想の実現に向かって共同の責任を果たそうとしない態度です。
 確かに、どんなに理想的な姿から現実のわたしたちが程遠いものであったとしても、現実にあわせて理想の方を引き下げてしまうことはできません。あくまでも聖書の教えは教えとして語らなければなりません。しかし、そのことは、理想を実現することができない人たちを簡単に裁いたり切り捨てたりしてもよいということではありません。
 もう一つの極端は、聖書の求める理想は人間には実現不可能であるとして最初から放棄してしまうことです。
 確かにわたしたちの弱さのために、聖書の描く理想的なクリスチャンの姿からわたしたちがほど遠いというのは現実かもしれません。しかし、だからといって、聖書の描く理想の姿を絵に描いた餅として捨てることはできないのです。人間の現実に合わせて聖書の教えのハードルを低くすることは許されないのです。
 この極端な二つの立場に挟まれながら、神が求めておられるクリスチャンとしての完成の実現を、弱さの中で共に果たしていこうと願うことこそ聖書が求めている態度なのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 3章16節と17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 きょう取り上げた箇所も先週に引き続き、「新しい人」が備えているべきことについての教えです。
 前回はそのうちの中から「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の五つの徳と、キリストの平和と神への感謝について取り上げました。きょうの箇所はその続きです。

 パウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧めます。このことは前後の勧めの言葉と切り離してはなりません。前回取り上げた「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けること」と今回取り上げる「キリストの言葉を豊に宿らせること」とは、深く結びついているのです。またキリストの平和がわたしたちの心を支配し、神に感謝をすることと、キリストの言葉を豊に宿らせることも密接な関係があるのです。
 キリストの言葉を豊に心に蓄える時、新しい人が身に着けておくべき徳を宿らせることができるのです。キリストの言葉を離れては、これらを実現させることはできないのです。
 キリストの言葉と言うのは具体的には聖書の中に記されているイエス・キリストの言葉に他なりませんが、それは文字通りキリストが語ったカギカッコの中だけを暗記すると言うことではありません。文字通りキリストが語った言葉も含めて、そこでキリストがおっしゃろうとしたことがら全体をキリストの言葉と受け止めることです。
 さらには、キリストから教えを受けた使徒たちが伝えた事柄も含めて、言い換えれば聖書全体の教えを豊に宿らせるということなのです。
 豊に宿らせると言うのは、心の奥深くにしまいこんでしまうと言うのとは違います。キリストの言葉がいつでも生活の中にあふれ出るように宿らせるのです。キリストの言葉が生活の指針となるようにキリストの言葉をしっかりともつことです。

 ところで、16節の中心的な言葉は「宿らせよ」という言葉です。キリストの言葉を宿らせることが16節で一番大切なこととして述べられているのですが、それに関連して述べられている「互いに教え、諭しあう」こととか、「神をほめたたえること」などは、キリストの言葉を豊に宿らせることと、どういう関係があるのでしょうか。
 新共同訳聖書ではそれぞれ、独立した命令文と理解して、並列にならべているだけです。つまり、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿らせ…互いに教え、諭し合い、…感謝して心から神をほめたたえなさい」といった具合です。
 けれども、16節で述べられている事柄はただいくつかの命令のことばを並べただけではありません。一つの言葉が他の言葉を支えているのです。
 つまり、「互いに教え、諭しあう」というのは「キリストの言葉を豊に宿らせる」ための具体的な方法なのです。これは興味深いパウロの勧めです。
 確かにその時代には印刷された聖書はもちろんのこと、手書きの聖書ですら誰でも読むことはできなかったのですから、キリストの言葉を豊に宿らせると言っても、皆が聖書を手にして聖書を学ぶということはできなかったのです。キリストの言葉を教会の中に豊に宿らせようと思えば、互いに教え、諭しあうことを通してしかできないのです。それが教会としてのクリスチャンを育て上げていく訓練でもあったのです。

 ところで、もっと驚くべきことは、「互いに教え、諭しあう」ための手段として、パウロは「詩編と賛歌と霊的な歌により」と記しているのです。
 この点に関してはちょっと説明が必要ですが、番組のテキストとして使っている新共同訳聖書では「詩編と賛歌と霊的な歌」によってなすのは、神への賛美です。しかし、「詩編と賛歌と霊的な歌により」という語句が掛かっているのは「ほめたたえる」と言う言葉ではなく「互いに教え、諭しあう」と言う言葉なのです。その根拠を詳しく説明するのはラジオ放送では限界がありますが、手短に言えば一つは文法的な理由からです。もう一つは同じようなフレーズはエフェソの信徒への手紙5章19節にも出てくるからです。そこでは「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」と言われています。つまり、歌によって「語り合い」「互いに教え、諭しあう」ことで、キリストの言葉を豊に宿らせようとしているのです。不思議なことですが、キリスト教的な歌をとおしてキリストの言葉が豊かに宿るのです。そういう意味で、キリスト教的な賛美の歌を軽い付属品のように扱ってはならないのです。キリストの言葉を豊かに宿らせるための教えや諭しに賛美の歌が貢献するように務めるべきなのです。

 さて、最後にパウロは身に着けるべき事柄についての一連の教えの結びとしてこう述べています。

 「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

 わたしたちの行動のすべてがキリストの御名によって成されているのか、そして、神への感謝の気持ちが行動を支配しているか、今一度わたしたちの生活を点検してみる必要を感じます。

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