聖書を開こう 2008年4月10日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主に喜ばれるように(コロサイ1:9-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 責任という言葉を英語ではresponsibilityと言います。レスポンスとうのは「応答」という意味ですから、英語のレスポシビリティは直訳すれば「応答可能性」という意味になります。つまり、与えられた任務や職務にどれだけ十分に応えることができるのか、ということが責任の内容なのです。
 そういう意味では、責任あるクリスチャンとしての生き方は、神の召しにどれだけ応えて生きるのかということにあるように思います。
 パウロの手紙はクリスチャンとしてこの神の召命に応えて生きるようにと教え励ますために記されたといってもよいと思います。手紙が宛てられた教会が直面している問題は様々ですが、肝心かなめのことを一言で言えば、わたしたちを罪の縄目から救い出してくださった神の御心に応えて歩むようにと、わたしたちを教え励ましているのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 1章9節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 きょうとりあげるのはパウロが日ごろコロサイの教会の信徒たちを覚えて捧げていた祈りの言葉です。もちろん、祈りの言葉そのものがすべて記されているわけではありません。しかし、ここを読むときに、パウロはどんな関心で、どんなことを願いながらコロサイの教会のために祈っていたのかということが分かります。

 先週もふれましたが、パウロはコロサイの教会を直接伝道したわけではありません。しかし、コロサイの教会の様子は仲間のエパフラスを通して詳しく聞き及んでいました。希望に根ざして、信仰と愛とを豊かに育んできたコロサイの教会です。その様子を聞いて以来、パウロたちはこの教会のために祈りつづけてきた、と記しています。
 パウロはここで少し大袈裟かもしれませんが「祈り願うことをやめません」という言い方をしています。コロサイの教会の良い様子を聞いて、ひと安心とばかり祈り願うことをやめてしまうのではなくて、ますます熱心に執り成しに励むパウロたちの姿勢が表れています。

 では、パウロたちはコロサイの教会のためにどんなことを神に願っていたのでしょうか。それは、「神の御心にかかわる深い知識で満たされること」、つまり「神の御心を十分悟る」ことです。神の御心は人間的な知識によって知ることはできませんので、パウロはわざわざ「”霊”によるあらゆる知恵と理解によって」と記しています。聖霊の働きかけによって初めて正しく神の御心を人間は知ることができるのです。
 しかもここでパウロは受身の言い方で「神の御旨にかかわる深い知識で満たされますように」と祈っています。こう言う場合の受身形はヘブライ語の表現では「神が満たしてくださいますように」という意味です。神が「”霊”によるあらゆる知恵と理解によって」神の御旨を十分に悟らせてくださるようにと願っているのです。

 ではいったい何のために神の御心を深く知る必要があるのでしょうか。それは「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むため」です。主に喜んでいただく生活というのはわたしたちの推測や想像の上に成り立つものではありません。そうではなく、神の御心を正しく知ることの上に成り立っているのです。人間のなすことの大半は人間的な善意の上に成り立っているはずです。よほどのことがない限り良かれと思ってすることがほとんどです。しかし、この人間的な考えに基づく行動こそが実は大きな問題を生み出すことが多いのです。
 この手紙の先を読み進んでいくと、コロサイの教会を取り巻く間違った教えについてが取り上げられています。パウロはその教えについて2章8節で「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と注意を促しています。人間が考え出して良かれと思ってしたことが、かえって人間を神の御心から遠ざけてしまうのです。ですから、すべての点で主に喜ばれるようにわたしたちを召してくださった主にふさわしく歩むために、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心にかかわる深い知識を満たしていただく必要があるのです。

 ところで「すべての点で主に喜ばれるように主にふさわしく歩む」とは具体的にどんなことがパウロの中でイメージされているのでしょうか。
 その一つは「あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知る」ということです。パウロはここで、成長し豊かな実をもたらして農夫を喜ばせる植物のような表現でそれを表しています。神を知る深い知識を伴って成長し、あらゆる善い行いという実をもたらすことで神を喜ばせることです。神を深く知るということは、ただ何かについて知っているということだけにとどまるものではないのです。神を知っていることが善き生活の中に豊かな実りとなることを神は喜んでくださるのです。

 また、「すべての点で主に喜ばれるように主にふさわしく歩む」とは、「強められる」生き方です。その力の源泉は神にあります。人間的な力で頑張ることが求められているのではありません。力の源である神に強めていただく生き方です。ですからパウロは「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ」と述べているのです。
 また、その力の向く先は「根気強い忍耐」です。耐え忍んで、すぐに感情的にならないことです。何かを破壊したり滅ぼしたりするための力をいただくのではなく、どんなことにも忍耐できる力をいただくこと、力を忍耐に向かって用いること、それが「すべての点で主に喜ばれるように主にふさわしく歩む」ことなのです。

 さらにまた、「すべての点で主に喜ばれるように主にふさわしく歩む」とは、「父なる神に感謝する」ということです。救いをもたらしてくださった神にすべての栄光を帰して神に感謝する姿勢こそ主にふさわしく生きる上で大切なことなのです。

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