キリストへの時間 2008年6月29日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

後登雅博(清和学園聖書科教諭)

後登雅博(清和学園聖書科教諭)

メッセージ: 主のために生きる

 おはようございます。清和学園の後登雅博です。
 時々、自分のこれまでの歩みを振り返ることがあります。そうしますと、自分の思い通りに生きてきたようでいて、そうでないことも多かったことに気がつきます。教会の牧師を目指してから、早17年が過ぎました。神様から与えられた牧師という志と、そのために費やしてきた時間や労苦には多大なものがあったと思っています。しかし、「今」という時を切り取って考えてみると、教会の牧師ではなく学校の先生をしているわけですから、全く予定外の働きをしていることになります。このことをどう考えることが出来るでしょうか。わたしの今までの労苦は無駄だったのでしょうか。

 人生において、自分の願うとおりにことが運ばないということは、悲しいことのように思われます。しかし、なぜこんなことが起こるのか分からないことの背後にも、神の御手を感じずにはおれません。

 聖書に
「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。」(申命記29:28)
と書いてあります。

 私達には分からない事も多くあるのですが、しかし神様の元には明らかでないことはひとつもないというのです。

 また、聖書には、
「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」(箴言27:1)
ともあります。

 私達は、明日のことが分からない、という限界のなかで計画を立てます。それに対して、神様は全てのことを見通して計画を立てておられるのです。
 今の時が、自分にとって思わしくない時であることもあるでしょう。しかし、私達の人生は悲しむためにあるのではありません。私達は明日という日に何が起こるかを知りません。だからこそ、神様に期待することが出来るのです。神様が明日という日を与えてくださるからです。

 ところで、学校という場所を、生徒たちは、3年、ないし6年で卒業していきます。つまり、教師が直接関われる期間は限られているのです。とはいえ、その限られた時は、生徒たちの将来へと続くときです。しかも、一番多感で、人格形成に大事なときを共にすごすのです。
 一人の生徒に関わるということ、それは自分が生きることになります。誰も一人では生きることができないからです。誰かのために生きることによって、自分も生かされているのです。

 聖書には、
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ローマ14:7-8)
とあるとおりです。

 私が牧師ではなく教師として働くということ。それは、自分の計画の中にはなかったことです。しかし、生徒のために生きることによって、神様の働きに携わっているのです。そして、この教師という働きは、牧師と同じ位大切な働きであると、今は思っています。

 そして、先の御言葉には次の言葉が続きます。
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

 イエス・キリストこそ、私達のために生き、死なれました。イエス様は、自分のために生きることをしなかったのです。その人生は、徹頭徹尾私たちのためのものでした。人生において、わたしたちは自分が生きていないと思うときがあるかもしれません。しかし、どのような人生においても、その背後には私達のために生きたイエス様がおられるのです。
 あなたの上にもこの神の祝福が豊かにあるようにとお祈りしております。

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