おはようございます。山下正雄です。
聖書の神をたった一言で言い表すことはできません。しかし、どんなに言葉をたくさん使ったとしても、それで十分というほどに神を描くこともできません。わたしたちが捉えたと思っても、まことの神はわたしたちの思いをはるかに超えたお方なのです。
しかし、それでも敢えて聖書の神とはいかなるお方なのかと尋ねられれば、「神は愛である」という聖書の言葉ほど、聖書の神をふさわしく言い表している言葉はありません。
新約聖書にあるヨハネの手紙は限られた言葉数しか使わない簡単な内容の手紙ですが、それでもその手紙が書き記していることは組み尽くしきれないほどの深いないようです。
そのヨハネの手紙の中にこう記されています。
「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネ4:8)
そこで言われている「愛」とはどんな愛でしょうか。ヨハネは続けてこう述べています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神が愛であると呼ばれる理由は、罪の中にあるわたしたちを救うために、その愛する独り子さえも惜しまずにこの世に送ってくざったからです。しかも、わたしたちの罪を償ういけにえとして捧げるためにです。ここに愛があるとヨハネは記しています。
わたしたちの生きている世界には理不尽なことがたくさん起ります。罪深い世界には正義よりも悪が幅を利かせて、弱い者や正直者が馬鹿を見るようなことがいっぱいです。運命や宿命のせいにして諦めようとしても、それでも諦めのつかないことに満ちています。こんな世界や人生を見つづけていたら、いったい神はほんとうに愛なのだろうかと疑いたくなることばかりです。
確かに聖書がいう「罪」に満ち溢れた世界をいくら眺めても神の愛のかけらを見出すことは難しいでしょう。またその罪に翻弄されて、時には罪の被害者になり、時には罪の加害者になる人間の人生をどんなにつぶさに調べてみても、はやりそこには神の愛を見出すことはできないでしょう。
しかし、ヨハネの手紙は「神は愛である」と記します。それは、イエス・キリストをとおして現われた神の救いの御業を見るときにだけ知ることができる愛なのです。
愛である神と出会える場所、それはこの世に遣わされたイエス・キリストと出会い、このお方のなさったことをつぶさに眺めることです。「ここに愛がある」とヨハネが指差す先にいてくださるイエス・キリストのもとへぜひ近づいてください。
具体的には聖書の中に記されているキリストの働きと言葉とに目を留めてください。きっとあなたも神の愛に触れ、愛である神と出会い、神の愛があなたのうちに留まることでしょう。
このヨハネの手紙はこう述べています。
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(1ヨハネ4:16)