キリストへの時間 2008年3月16日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 怒る神

 おはようございます。山下正雄です。
 高校生の頃見た夢で、今でも鮮明に覚えている夢があります。薄暗いゴツゴツとした山肌を逃げ惑うように走る自分の姿がそこにはありました。やっと見つけた大きな岩陰に身を隠して、何かが過ぎ去るのをひたすら怯えながら身をすくめている自分でした。そして、なぜかその場面にはバッハのカンタータ第55番『われ哀れなる人、われ罪の下僕』がバックグランドに流れていたのです。今から思い返してみると、なんとも奇妙な夢です。
 当時バッハのカンタータ55番は毎日のように聴いていたので夢の中までに出てくるのは自分でも納得できました。ところが岩陰に身を隠すという行動が不可解で、ずっと心の中にその夢のことをしまっていたのです。ある日新約聖書の黙示録を読んでいたら、まさにその場面と思われる記事に出くわしました。そこにはこう記されています。

 「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」(黙示録6:15-17)

 もちろん、黙示録を読むのはその時が初めてのことではありませんでした。しかし、そんな場面があったとは自分の記憶の中にさえありませんでした。ところが、夢の中にまで出てくるくらいのことですから、心のどこかにその場面をとても恐ろしいと感じていたのでしょう。

 聖書の神というと、愛の神というよりも怒りの神というイメージを強く抱いている方がいらっしゃると思います。確かに旧約聖書を読んでいると「怒る」という言葉は、人間が怒っている場合よりも神が怒っている場合がほとんどです。それほどに聖書の神は怒る神です。もちろん聖書の神の怒りは理不尽な怒りではありません。ご自分の感情に任せて、気ままに怒っているのではありません。神が怒るのはご自分との約束を人間が破った時です。人間が罪を犯し、神をないがしろにする時に、その怒りには激しいものがあります。
 もちろん、怒る神のイメージは、聖書を注意深く読めば気がつくとおり、数ある神のご性質の一つに過ぎません。聖書は怒る神を描くと共に、寛大にも罪を赦し、憐みと慈しみを示してくださる神の姿も描いています。両方を理解してこそ、正しく神を知ることができるのだと思います。
 そもそも、罪に無頓着で、正義に無関心な神であるとすれば、罪の赦しも憐みも慈しみもほとんど意味のないものです。逆説的かもしれませんが、罪に対して激しくお怒りになる神であるからこそ、その神が与えてくださる罪の赦しは何にも変えがたいものなのです。罪をとことん追求される神であるからこそ、その神が示してくださる憐みと慈しみは計り知れないくらい大きなものなのです。

 聖書の神は確かに罪に対して激しく怒りを燃え上がらせる神です。しかし、だからこそ、罪に人間が留まっていることが耐えがたいのです。だからこそ、人間が罪から立ち直って神の恵みのもので生きることを切に願っていらっしゃるのです。怒る神は何よりも救いの神でいらっしゃいます。神の怒りの裏にある計り知れない神の憐みと慰めをぜひ聖書の中から受け取ってくださいますように。

コントローラ

Copyright (C) 2008 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.