聖書を開こう 2007年1月4日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 赦し(マタイ18:21-35)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「仏の顔も3度まで」という諺があります。どんなに温和で慈悲ぶかい人でも、たびたび無法を加えられれば、しまいには怒り出すという意味です。どこまで我慢できるかという回数に関していうと、3度というのは世の中の常識なのかも知れません。ユダヤ教のラビたちが書いた書物の中でも、3度までは赦しがあるが4度目は赦されないといわれています。別のラビは、赦しは3度以上は乞うてはならないとさえ言っています。
 そもそも、4回も5回も無法を働けば、どんなに「もうしないから」といっても、その言葉そのものが信用できなくなってしまうものです。
 イエス・キリストは赦すことについてどう教えていらっしゃったのでしょうか。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 18章21節から35節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、10,000タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 「神の国では誰が一番偉いのか」という弟子たちの質問をきっかけに、イエス・キリストがお話くださった一連の教えを今まで学んで来ました。それは、自分自身を子供のように取るに足りない者とし、どんなに小さな者をも躓かせないということでした。その者こそが天の国では一番偉いのです。さらに、小さな者が失われることに心を痛め、「小さな者が一人でも滅びることは、神の御心ではない」と信じて、迷い出た小さな者たちを教会の交わりの中に連れ戻す者、その者こそが神の国で一番偉い者なのです。

 さて、きょうの箇所では自分に罪を犯した兄弟を何度まで赦すべきかというペトロの質問が取上げられます。先週学んだとおり、兄弟を赦し、受け容れることは、失われた兄弟を得ることになるのです。そのことこそ、神の国で一番偉い者が率先してなすべきことです。しかし、ユダヤ教のラビたちの教えにもあるとおり、赦しにも限界があるはずです。ペトロが赦しの限度について尋ねるのも当然の疑問と言えるでしょう。ラビたちが3度と教えていましたので、ペトロは思い切って7回までですか、と尋ねます。7と言う数字は聖書の中では完全数と考えられていますから、ペトロは文字通りの7回というよりは、もっと大きな数字を考えていたのかもしれません。しかし、その数がいくつであれ、赦しには限度があるべきだという考えからペトロは抜け出すことはできませんでした。もちろん、それがこの世の常識だからです。
 それに対して、イエス・キリストは「7回どころか7を70倍するまで」とお答えになりました。もちろん、この数字を490回と文字通りに理解すべきではないでしょう。ペトロが言った7でさえ大きな意味を持った数字なのですから、それをさらに70倍すれば、これはほぼ無限と言うに近いものです。
 そもそも、どんな赦しでも、ほんとうの赦しというのは数えるものではありません。ほんとうに赦してしまったら、もう過去のことはすっかり忘れ去られてしまうはずです。思い出す限り、心から赦しているとはいえないのです。あえて言えば、赦しはいつも1回なのです。イエス・キリストがおっしゃった「7の70倍」とは、よほど執念深く記録でも取っておかなければ覚えることのできない数字です。裏を返せば覚えておくことがナンセンスな数字なのです。つまり、一度赦したなら、もうそれを覚えておく必要はないのです。心からほんとうに赦すということはそういうことなのです。

 さて、イエス・キリストは赦しの大切さについて、続けてたとえ話をお語りになりました。
 主君に借金をしている家来の話です。決算の結果、その借金額は10,000タラントンにも及ぶものです。1タラントンはローマの銀貨6,000デナリオンにあたります。1デナリオンは1日の日雇い労働の相場であると言われていますから、10,000タラントンは6,000デナリオン×10,000で、つまり6,000万日分の日雇い労働賃金に当たることになります。要するにこの先一生日雇い労働をしたとしても、返せるような額ではないことは明らかです。
 「主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」とありますが、そうしたところで、焼け石に水。借金のほんの一部の返済にもならないくらいです。男は必死で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いますが、どう頑張っても返せる額でないことは分かりきっています。そうであればこそ、この主君は「ならば、気長に待とう」などとは言わずに、全部の借金を帳消しにしてやってしまったのです。
 ところが、この赦された男は、自分に百デナリオンほど自分に借金のある仲間にばったりあうと、自分が赦された額とは比べものにもならない小さな借金を返せと迫るのです。当然のこと、事態を耳にした主君は男のふるまいに失望と怒りを隠せません。

 では、いったいイエス・キリストはこのたとえ話を通して何を語りたかったのでしょうか。
 一つには、私たちは神との間に返済することのできないくらいの借金があると言うことです。具体的に何か悪いことをしたというよりも、神の御心を果たさなかったという借りがあるのです。当然果たすべき神の掟を、何もしないで過ごしてしまっている借りなのです。
 第二に、神はただただ憐れみの心から、赦しを乞う者にはその負債をすべて赦してくださっているということです。わたしたちが何かをしたご褒美として、罪が赦されているわけではないのです。
 そして、三番目には、神を信じる者の生活全体が、この神の赦しにかかっていると言うことなのです。神からすべてを赦されているという事実の上に、わたしたちがどう振る舞うべきかが問われているのです。
 赦しを求める者に赦しを与えること、それは何回までという回数の問題ではないのです。神の憐みによってわたしたちに赦しが与えられているという事実が、他者を赦し、受け容れることを求めているのです。

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