BOX190 2007年9月12日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 信仰を持ち続ける自信について 山形県 N・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのN・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめてメールを書かせていただきます。よろしくお願いします。
 さて、さっそくなのですが、信仰についての質問があります。学生時代からわたしはキリスト教に関心があり、いつかは洗礼を受けてクリスチャンになろうと考えています。しかし、一生涯クリスチャンでありつづける自信など今の自分には正直言ってまったくありません。中途半端な気持ちで信仰を持ちたいとは思いませんし、信仰を持つなら最後まで持ちつづけていきたいと願っています。
 いったいどのようにしたら、最後まで耐え忍ぶことができる強い信仰を持つことができるのでしょうか。また、どうしたらそのような自信を持つことができるようになるのでしょうか、教えてください。
 それとも、そんな先々のことを心配しないで、神様の御手にすべてを委ねて、ビルから飛び降りるようなつもりで信仰を持った方が良いのでしょうか。よろしくお願いします。」

 N・Tさん、メールありがとうございました。信仰についての純粋なご質問にこちらも背筋がピンとする思いがいたしました。確かに信仰を持つということは決断を伴うことことだと思います。そして、決断を下すということは、ただ闇雲に決定を下すのではありません。そのことについての確信と将来的な見通しがはっきりするのでなければ、揺るぎない信仰を持ちつづけることはできません。

 さて、キリスト教の信仰を持つという場合、もちろん、キリスト教信仰の内容についての確信が持てなければお話になりません。神の存在、人間の罪の現実、キリストの救いの御業、キリストの救いを信じる者たちに確実に適用される聖霊の働き、そういった事柄について知っていること、そして、それが確実であると同意できること、こうしたことがなければ、そもそもキリスト教を信じようとする思いも出てこないだろうと思います。
 N・Tさんの場合は、そうした事柄については十分知っていらっしゃるのでしょうし、それらの事柄についてその通りだという確信はおありなのだとお見受けしました。そうでなければ、いつかは洗礼を受けたいと思うようにはならなかったことでしょう。
 ただ、N・Tさんがもう一歩踏み出すことができないのは、キリストが提供してくださる救いについての確信を、果たしてずっと持ち続けることができるのかどうか、この点についての自信がないからだということです。では、いったい、どのようにしたら自分の信仰が確かにありつづける確信をもつことができるのでしょうか。そのことをお話したいと思います。

 まず、このことをお話するには、その前に一つのことに触れなければならないだろうと思います。ご質問にありましたように「わたしが耐え忍ぶ」とか「わたしが自信を持つ」ということは、もちろん信仰を持つ上で大切なことであることは言うまでもありません。しかし、「わたしが耐え忍ぶことができるのはなぜなのか」「わたしが自信を持ちつづけることができるのはなぜなのか」…それは結局のところわたしの力に依存するのかということを聖書からきちんと学ぶ必要があるのです。

 何はともあれ、三つほど聖書の言葉を引用したいと思います。最初はフィリピの信徒への手紙の1章6節の言葉です。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 「あなた方の中で善い業を始められた方」というのは神様ご自身のことです。つまり、パウロがここで確信していることは、神ご自身が救いの御業を成し遂げてくださる、完成させてくださるということです。言い換えるなら、フィリピの教会の信徒一人一人に救いの完成がかかっているというよりも前に、神がそのように働いてくださるからこそ、キリストの日に備えて、一人一人が確実に完成へと向かって歩むことができるのです。
 同じ真理をパウロはコリントの信徒への手紙一の1章8節9節でこのように述べています。

 「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。」

 ここでも、パウロはコリントの信徒一人一人の努力に先立って、真実なお方である神が最後までしっかりと支えてくださるという大切な真理を述べています。

 もう一箇所、同じ事の繰り返しですが、パウロは救いの完成について祈った後、テサロニケの信徒への手紙一の5章24節でこう述べています。

 「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」

 ここでも、救いの達成はテサロニケの人々の努力に先立って、神が真実なお方であるという点にかかっているのです。

 パウロにとって救いの確信というのは、人間の努力というよりも、わたしたちをキリストにあって救いへと選んでくださった神の真実さにこそあるということなのです。人間はもともと不真実で、神の契約に対して不誠実なものです。しかし、神はそうではないのです。神がお決めになり、神がお決めになったとおりに誠実に救いの業を果たしてくださるのです。ここにこそわたしたちの救いの確かさがあるのです。

 では、このようなことを手紙に書いたパウロは何も努力をしなかった人なのかというと決してそうではありません。最初に引用したフィリピの信徒への手紙の中で、パウロはこう書いています。

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:13-14)

 パウロこそ誰よりも熱心に救いの完成に向かってひたすら走りつづけた人はいません。パウロにはそれだけの自信があったからでしょうか。そうなのではありません。パウロは自分自信に希望を抱いていたのではなく、自分を支えてくださっている神に希望を抱いていたのです。ですから、パウロは同じ手紙の中で、こうも言っています。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(3:12)

 自分自身に目を留めればいつまでたっても信仰の決断の一歩を踏み出すことはできません。そうではなくわたしを捕らえてくださっているキリストに委ねて歩むときに、最後まで耐え忍ぶ力と確信とが与えられるのです。

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