タイトル: 言葉遣いでわかるとは? 東京都 M・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのM・Aさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を感謝して聴いています。
さて、早速ですが、先日聖書を読んでいて疑問に思ったことがありますので、質問させていただきます。
マタイによる福音書26章に、逮捕されたイエス・キリストの後をついて行ったペトロが、大祭司の中庭で裁判の様子をうかがっていると、その場に居合わせた人々から『お前もイエスの仲間だろう』といわれた話が出ています。そのとき、『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる』と記されています。
言葉遣いでイエスの仲間だということがわかるというのは一体どういうことなのでしょうか。キリストの弟子たちは特別な言葉遣いをしていたということなのでしょうか。確かに現在でもクリスチャンの言葉は独特なものがあるように思います。しかし、自分がキリストの仲間ではないというのを特別な言い回しで言ったとも思えません。
あるいは、キリストとの関係を否定しながらも、キリストに対して敬語的な表現を使っていたということでしょうか。あるいは、また言葉が怯えたような調子だったので、それで仲間だということがその言葉遣いでわかったということなのでしょうか。
つまらないことですが、疑問に思いましたので、よろしくお願いします。」
M・Aさん、メールありがとうございました。細かいことにお気づきになったM・Aさんのご質問、とても面白く読ませていただきました。
大祭司の屋敷の中庭で、ペトロがイエスを三度否認するお話は有名な出来事です。事前に最後の晩餐の席上でイエス・キリストから「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告されたにもかかわらず、そのとおりになってしまったお話です。その場に居合わせた人たちから、「お前も仲間だろう」と問いただされて、ペトロは三度もキリストとの関係を否定してしまいました。
さて、イエス・キリストが最高法院の取調べを受けていた時に、大祭司の屋敷の中庭でその様子をうかがっていたペトロが、どうしてその場に居合わせた人たちから、「お前もイエスの仲間だ」といわれてしまったのでしょうか。M・Aさんがご指摘してくださったとおり、マタイによる福音書は「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と記しています(マタイ26:73)。実は同じことを記しているマルコによる福音書には「言葉遣いでそれが分かる」とは記されていません。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」(マルコ14:70)と記されているのです。つまり、この二つの書き方を比べてみると、マタイの言っている「言葉遣い」というのは、敬語とか丁寧語という言葉遣いでもなければ、クリスチャン独特の言葉遣いでもなく、「ガリラヤの者だ」とわかる言葉遣いであったということが分かります。
日本人が「L」と「R」の発音の区別ができないというのは有名な話です。英語の「光」を表すLightも「右」を表すRightも上手に発音できないので、アメリカに行くとすぐに外国人だということがバレてしまいます。もっとも西洋人か東洋人かは顔を見ただけで分かってしまいますから、言葉を聞くまでもありません。では、東洋人同士ならばどうでしょうか。顔を見ただけでは日本人か韓国人かほとんど区別ができません。しかし、言葉を聞けばすぐに日本人かどうか分かってしまいます。例えどんなに言葉が堪能であっても、ちょっとした発音の違いで日本人かそうでないかは大体見当がつくものです。
これは狭い日本でも、言葉を聞けば大体どこの出身かというのが分かるのと同じです。例えば東北の人には「い」と「え」の区別が上手に出来ない人がいます。「○○学園」と「××学院」とを区別して発音することが難しくて、どちらも「がくいん」になってしまいます。あるいは、九州の一部の地方では「せ」の発音が「しぇ」になる人がいます。「先生」が「しぇんしぇい」になったり、「わかりません」が「わかりましぇん」になるので、すぐどこの出身か想像がつきます。独特の訛りがあるのは地方の人ばかりではありません。江戸っ子は「ひ」と「し」が区別できないというのも有名な話です。「火箸」が「しばし」になったり、「コーヒー」が「コーシー」なってしまいます。
では、ガリラヤの人がそれとわかってしまう発音の違いというのはなんだったのでしょうか。ものの本によると、ユダヤに比べてガリラヤは外国の文化の影響を大きく受けていたために、話し方も外国語の影響を受けていたといわれています。しばしば指摘されていることはガリラヤの人は喉を鳴らして音を出す「喉音」の発音が苦手であったということです。特にヘブライ語の最初の文字アーレフと5番目の文字「へー」の音の区別、それからヘブル語の8番目の文字「ヘト」と16番目の文字「アイン」の発音が上手に区別できなかったと言われています。日常の会話では「H」の音がほとんど聞き取れないほどであったそうです。また、タルムードによれば、ガリラヤでは律法の教えが純粋に保たれない理由として、ガリラヤの人たちが言葉を正確に話さないからであると記されています。どう正確でないのかは記されていませんが、エルサレムの人々の話し方と比べてとてもルーズな感じに聞こえたのでしょう。実際、ペトロがどんなガリラヤ訛りのアラム語で実際に答えたのかは分かりませんが、ガリラヤ人特有の訛りからそれがわかってしまったのでしょう。
ちなみに、聖書の中には同じように訛りのある発音が原因で素性がバレてしまうという話は、他にも出てきます。士師記の12章6節には、渡し場を渡ろうとしたエフライム人に「シボレト」と言わせてみたとあります。「シボレト」というのは「麦の穂」とか「溢れる流れ」を意味する言葉ですエフライム人はshの「シ」の発音とsの「し」の区別ができなかったようです。そのためにエフライムの人であることがバレてしまって無事に渡し場を越えることができなかったという話です。
こうしてみてくると、言葉の壁というのは同じ言葉を話す人たちの間でも、案外大きな壁のようです。ペトロはまさか自分の話す言葉で自分がイエスの仲間であることが分かってしまうだろうなどとは夢にも思わなかったことでしょう。
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