聖書を開こう 2006年10月12日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: しるしを見分ける心(マタイ16:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしがまだ牧師になるための勉強をしていた時のことです。弁証学という授業がありました。キリスト教の真理を非キリスト教の世界に対していかに弁証し弁護するのかという学問です。神学の「し」の字もわからなかったわたしには退屈な授業でした。しかし、不思議なもので、あれから25年近くたっても、いまだに教授が口癖のように語っていた言葉を思い出します。
 「この世の中には解釈されない事実…『原事実』(brute fact)というものはない」…この言葉を何度も聞かされました。それこそ初めてこの言葉を耳にしたときには何を言っているのかさえ、さっぱりわからなかったものです。
 しかし、今にして思えば、この言葉の重みをしみじみと実感できます。人間と言うのは出来事や事実をいっさいの解釈を含めないで中立的に描けるものではないということです。理性とは一般に非常にロジカルで中立的なものだと思われがちですが、学問の世界においてすら、その人の価値観や世界観や信条といったものが、最初から結論に影響を与えてしまうことは避けられないようです。学問というのは中立的に何かを描くことができるようで、しかし、その学者が何を信じているかによって結論自体に影響が出てきてしまうのです。
 実はきょうの個所ほどそのことを考えさせられる個所はありません。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 16章1節から4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

 きょうの個所に登場するのはファリサイ派とサドカイ派の人々です。ファリサイ派の人たちは既に何度か登場していますので、もうお馴染みの名前だと思います。モーセの律法を重んじ、律法を守ることによって救いを手に入れることができると考えていたユダヤ教の宗派でした。専門家の集団ではありませんでしたが、モーセの律法を具体的に守るために徹底的にモーセの律法の解釈を研究した集団です。
 それに対して、サドカイ派の名前がこの福音書に出てくるのは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で活動をしていた頃に一度登場したっきり、きょうの個所まで顔を出しません。
 このグループはイエス・キリストが生きていた当時のユダヤ教の活も信じていました。主流的なグループでした。おもに貴族や裕福な階級層の者がこのグループに属し、ユダヤの最高法院でも多くの議席を占めていました。大祭司もこのサドカイ派に所属していました。まさに、ユダヤの社会を動かしていた主流派と言うことができるでしょう。政治的にはローマ帝国とも上手に妥協する術を知っていましたから、その点はモーセの律法を純粋に守ろうとするファリサイ派とは立場の違う者たちでした。
 この二つのグループは神学的にもいくつかの違いが明らかでした。後に使徒言行録の記述によれば、サドカイ派の人々は天使や復活などを信じていませんでした。他方、ファリサイ派の人々は天使も復
 またファリサイ派の人々はモーセの律法を重んじたとはいえ、それはモーセの律法をどのように解釈し、適用するかと言う言い伝えや伝承を含めたものでした。他方サドカイ派はそうした言い伝えは重んじないグループでした。
 こうして見てくると、この二つのグループは交わるところがないといってもよいように思えます。また、そうであればこそ、ユダヤの最高法院の決定は一方に偏らないバランスが保てたのかも知れません。ところが、面白いことに、きょうの個所では、そのまるで立場の違う二つのグループの人々が、同じ目的のために共同してイエスのところにきているのです。それはイエスを試そうとする目的です。この場合の「試そう」というのは、決して中立的に良し悪しを判断しようと言うものではありません。すでに結論が出ている目的のために、相反するグループが手に手を取ってやってきているのです。どうやってイエスを訴え出る口実を得ようか、その目的のために二つの相反する立場のグループは協力し合っているのです。
 彼らがイエスに求めたものは、「天からのしるし」でした。しかし、よくよく考えてみるとファリサイ派の人々は既に単独で同じことをイエスにかつて求めたことがあったのです。
 マタイ福音書の12章38節以下に、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスにしるしを求めたことが記されています。そして、そのときイエスからいただいた答えは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしはあたえられない」と言うものでした。今回もまさにイエスから与えられる答えは以前とまったく変わらないものだったのです。ファリサイ派の人々に関して言えば、それはまったくの繰り返しの質問であり、あのときのイエスの解答を少しも理解しなかったと言う証拠でもあるのです。
 ところで、今回はサドカイ派の人々を同行したファリサイ派でしたが、その彼らに向かってイエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」

 サドカイ派の人々もファリサイ派の人々も空模様から翌日の天気を言い当てることができる経験も常識もあるある人たちです。夕焼け空を見て、朝焼けと同じように赤く空が染まっているから次の日は嵐だなどと天気を読み間違えるような人たちではないのです。西の空が赤いか、東の空が赤いか、その時間と場所で天候が違うことぐらい判断できる能力のある人たちです。
 しかし、その彼らが今までイエスがなさった数々のしるしを見て、それが悪霊からでたものか、それとも天からのしるしであるのかを見分けることができないとは、なんとも滑稽な話です。自然世界をあれほどまでに客観的に観察できる能力も、天からのしるしを見分ける力には役立っていないのです。いえ、彼らの能力も教養も、自分の間違った信念で既に歪んでしまっているのです。どこをどう見ても、イエスの業は悪霊の頭によるものとしか見えないのです。
 彼らの主張は、イエスが天から遣わされた救い主であるかどうかを判断する材料が不足しているので、その判断ができないとあたかも言っているように見えるのですが、実はそうではないのです。彼らの心の中の頑なな思いこそが、事実を自分流に捻じ曲げてしまっているのです。

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