聖書を開こう 2006年1月26日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「罪人を招くため」 マタイによる福音書 9章9九節〜13節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリストは何のために来られたのか、この問いは簡単なようで難しい問いです。難しいといったのは、答えが難しいという意味ではありません。そうではなく、答えを出そうする人間が、この問い掛けにあまりにもたくさんの注文をつけすぎるからだと思います。救い主にはあああって欲しい、こううあって欲しいという人間の側の期待と要求は、しばしば救い主の姿をゆがめてしまいます。

 キリストが何のために来られたのか、それは人間の側の期待の中に答えがあるのではなく、イエス・キリストご自身の言葉にその答えがあるのです。きょうはそのイエス・キリストご自身の言葉に耳を傾けましょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章9節から13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 きょうの個所は徴税人のマタイを、イエス・キリストが召し出されたことから始まる話です。今までマタイによる福音書の中で「弟子」として具体的に名前が挙げられていたのは、ペトロとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの四人だけでした。そのほかにもイエスに従ってくる人たちはいたのでしょけれども、きょうの個所まで、具体的に名前が上がっている人は一人もいません。この時点でいったい何人の人たちがイエスに従って行動を共にしていたのかは、マタイ福音書には具体的な名前も人数も記されていません。

 ただ、きょうのところで、新たにマタイという名前の人物がイエスの目にとまり、従ってくるようにと招かれます。

 このマタイという人物は伝説によれば、このマタイ福音書を書いたその人本人です。もちろん、それは言い伝えによるもので、ことの真実は定かではありません。ただ、はっきりと分かっていることは、この人物が徴税人であったということです。徴税人という仕事は、ローマ帝国のために税金、とくに通行税や携えている荷物にかかる税金を取り立てる仕事をする人です。この役職はいわば税金取立ての請負人のようなものでした。この職を手に入れようとする者は、予めローマ政府に対して、取り立てるはずの予定の金額を前もって納め、それと引き換えに徴税人の職を手にするのでした。ですから、自分が損をしないように予定の税金額を取り立てるためには、ずる賢く通行人にふっかけることさえ平気でしたのです。予定の金額より多く集めることができれば、私腹さえ肥やすことができたのです。そういう職業でしたから、人々からは詐欺師や泥棒と同じように軽蔑されていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税人の仕事が嫌われたのは、そういう理由からだけではありませんでした。それは、唯一まことの神だけが王であると信じるユダヤ人の教えに反して、自分たちを苦しめるローマ帝国の皇帝に仕え、その皇帝のために税金を取り立てる仕事をしていたからです。ユダヤ人にとっては、言ってみれば宗教的にも民族感情的にも裏切り者だったのです。従って徴税人の職につくものは「罪人」と呼ばれるにふさわしい人間だったのです。

 こともあろうに、その徴税人をイエス・キリストはご自分のもとにお招きになり、ご自分に従って来るようにとおっしゃったのです。

 そればかりではありません、イエス・キリストは徴税人マタイの家に招かれて、他にも大勢の徴税人や罪人と呼ばれていた人々と一緒に食事の席に着かれたのです。

 この光景をファリサイ派の人々が黙って見過ごすはずはありません。少なくともそれまでの教えや奇跡の御業を通して、民衆の支持を確実に得ていたイエスのことです。そのイエスの動向をただ手をこまねいて見ているようなファリサイ派の人々ではありません。モーセの律法に忠実に生き、そのことを通して救いを手に入れることができると信じていたファリサイ派です。罪人と食事をし交わるような人物が神から遣わされた救い主であろうはずもないと彼らが思うのも当然です。さっさくイエスの弟子たちのところへ行って異議を申し立てます。

 「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

 これは決して純粋な質問ではありません。どうしてなのかと、その答えを聞こうという姿勢から出てきた問いではないのです。徴税人や罪人と食事をするような人は、その人もまた罪人に違いないという非難を込めた質問です。

 このファリサイ派の人々の質問にイエスはこうお答えになったのです。

 それは誰が救いを必要としているのかという問題です。医者と病人の関係を引き合いに出して、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 イエス・キリストは「正しい人が救われるのだ」というファリサイ派の人たちの暗黙の考えに対して「罪人こそ罪からの救いを必要としている」とお答えになったのです。ファリサイ派の人たちは罪人のいる世界に自分たち正しい者が置かれている苦しみ、その苦しみからの解放こそが救いであると考えているのです。だからこそ、正しい者だけが救いに与るのだと思っているのです。

 しかし、イエス・キリストが説く救いとは、罪の生み出す苦しみから罪人そのものを解き放つ救いなのです。さらに言えば、この世の苦しみとはファリサイ派の人たちが考えるように、罪の世界に正しい人が生きる苦しみなのではなく、正しい人が一人もいない罪の世界に罪人が生きる苦しみなのです。だからこそ、罪人が救われなければ、救いなどありえないのです。

 救いを必要としている罪人のためにこそ、救い主キリストは来てくださったのです。

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